出自と経歴
- 蕭氏は小字を意辛といい、國舅駙馬都尉托斯和の娘。母は呼敦公主。意辛は容姿が美しく、二十歳で耶律努に嫁いだ。親に事え族を睦み、孝謹をもって聞こえた。
- かつて娣姒(妯娌、義理の姉妹)たちが集まり、厭魅(呪術)を用いて夫の寵を得る話を争って語った際、意辛は「厭魅より礼法がよい」と言った。皆その理由を問うと、「己を修めて潔く、長を奉ずるに敬をもってし、夫に事えるに柔をもってし、下を撫するに寛をもってし、君子に軽んじられないようにする、これを礼法という。自然に夫から重んじられる、厭魅で寵を得ることは、独り心に恥じないだろうか」と答え、聞いた者は大いに恥じ入った。
- 初め努は樞密使伊遜と隙があり、皇太子が廃されるに及んで誣告を受け爵を奪われ興聖宮に没入され烏爾古部に流された。上は意辛が公主の娘であることから婚姻を絶たせようとしたが、意辛は「陛下が私を葭莩(遠い親戚)の縁により流竄を免れさせてくださるのは実に天地の恩です。しかし夫婦の義は生死を共にするものです。私は笄年(十五歳)から努に従い、一旦難に臨んで頓に別れることは、綱常の道に背き禽獣と何が違いましょうか。願わくは陛下が哀れんで努と共に行かせてくだされば、私は死んでも恨みはありません」と辞退した。帝はその言に感じ入りこれを許した。
- 意辛は久しく流謫の地にあって自ら労役を執り、労苦しても難色を示さなかった。夫に事える礼敬は以前にも増した。壽隆中、子孫を著帳郎君にするよう上書し、帝はその節義を嘉して召し一家を還らせた。子の國隠は乾統年間初めて仕えた。
- 保大中、意辛は臨漢にあって諸子に「私が思うに盧彦倫は必ず叛くだろう、お前たちは速やかに避けよ、私はこれに殉じるべきだ」と語った。賊が至ると害に遭った。