遼史卷一百七 列傳第三十七 耶律氏

出自と経歴

  • 耶律氏は太師達魯の妹で、小字を常格という。幼くして爽秀で成人のような風格があり、成長すると操行が修潔で、自ら嫁がないことを誓った。詩文をよくし、みだりに作らなかった。通厯を読んで前人の得失を歴々と品藻することができた。
  • 咸雍年間、時政を述べた文を作り、その大略に「君は民を体とし、民は君を心とする。人主は忠賢を任じ、人臣は比周を去るべきである。そうすれば政化は平らかになり陰陽は順う。遠人を懐かせようとすれば恩を崇め徳を尚び、国を強くしようとすれば徭を軽くし賦を薄くすべきである。四端五典は治教の本であり、六府三事は実に生民の命である。淫侈は戒めとし、勤儉は師とすべきである。枉を正せば人はあえて詐らず、忠を顕せば人はあえて欺かない。空門(仏教)に泥み土木を崇飾することなく、辺鄙のことで妄りに金帛を費やすことなかれ。満つれば溢れることを思い、安ずれば必ず危うきを慮るべきである。刑罰が罪に当たれば民は善に勧み、遠物を宝としなければ賢者が至る。万世磐石の業を建て諸部の強横の心を制するには、下を率いようとすれば先に身を正し、遠を治めようとすれば朝廷から始めるべきである」と述べた。
  • 上はこれを称賛した。当時樞密使耶律伊遜はその才を愛ししばしば詩を求めたが、常格は回文の詩を贈り、伊遜はそれが自分を諷刺していることを知り恨みに思った。
  • 太康三年、皇太子が事に坐した際、伊遜は罪を誣告したが、按じても証跡がなく免れた。折しも兄の達魯が鎮州に謫される際、常格もこれに随い、布衣蔬食に甘んじた。人が「なぜこれほど自分を苦しめるのか」と問うと、「皇儲(皇太子)は無実の罪で廃されたのに、私たちがどうして美食安眠できましょうか」と答えた。太子が害されたと聞くと哀痛に堪えなかった。享年七十で家に卒した。