遼史卷一百五 列傳第三十五 楊遵朂

出自と経歴

  • 楊遵朂は字を益誡といい、涿州范陽の人。重熙十九年進士に登第し儒州軍事判官に調された。累進して樞密院副承㫖となり、咸雍三年宋國賀正使となって帰り、都承㫖に遷った。
  • 天下の事は樞府に集まり簿書は渋滞していたが、遵朂は一目五行を読み剖決は流れるようであり、奏上は詳細で機敏であった。上はこれを嘉し、詔を奉じて户部の逋銭を徴し四十余萬緡を得た。
  • 樞密直學士を拝し樞密副使に改まった。太康初め叅知政事となり、知樞密院事に徙り門下侍郎平章事を兼ね、南府宰相を拝した。耶律伊遜が皇太子を誣告した際、詔により遵朂は雅克とともにその事を按じたが、遵朂は正しく言うことを敢えてせず、当時の議論はこれを短所とした。
  • まもなく北府宰相を拝したが、大安中にわかに卒した。享年五十六。守司空を贈られ諡は康懿。子の晦は昭文館直學士に終わった。