出自と経歴
- 王鼎は字を虚中といい、涿州の人。幼くして学を好み、太寧山に数年居し経史を博通した。
- 当時馬唐俊が燕薊の間で文名があり、上巳の日に同志と水辺で祓禊を行い酒を酌み詩を賦していたところ、鼎が偶然席に加わった。唐俊は鼎の朴野な様子を見て下座に置き詩で困らせようと自作を先に出して賦を求めたが、鼎は筆を執ってたちまち作り上げ、唐俊はその機敏さに驚き交わりを結んだ。
- 清寧五年、進士第に擢され易州觀察判官に調され、漆水縣令に改まった。累進して翰林學士となり、当代の典章の多くはその手から出た。治道十事を上書し、帝は鼎が政体に通じているとしてしばしば咨訪した。鼎は正直で阿らず、人に過ちがあれば必ず面と向かって詆った。
- 壽隆初め觀書殿學士に陞ったが、ある日主家で宴し酔って客と忤ったことがあり、上は知らなかったがこれにより下吏に付され事が上聞し、上は大いに怒り杖・黥を科して官を奪い鎮州に流した。数年後、赦があったが鼎独り免れなかった。折しも守臣が鼎に賀表を作らせた際、詩を使者に贈り「誰知天雨露独不到孤寒(誰が知ろう天の雨露が独り孤寒に届かぬことを)」の句があった。上はこれを聞いて憐れみ、召し還して復職させた。乾統六年卒した。
- 鼎が県令であったとき、庭で憩っていると突然暴風が起き臥榻を空中に持ち上げた。鼎は恐れる様子もなく、ただ枕榻がともに高くなったのを覚え、「私は中朝の端正な士であって邪でも正しさに欠けるでもない、静かに置くように」と言うと、たちまち榻は元の場所に戻り風もやんだという。