遼史卷一百三 列傳第三十二 李澣

出自と経歴

  • 李澣は初め晉に仕え中書舎人となった。晉が亡ぶと遼に帰した。太宗が崩じ世宗が立った際、状況が定まらず混乱し、澣は髙勲ら十余人とともに南京に留められた。しばらくして帰属し上京に至り翰林學士を授けられた。
  • 穆宗が即位すると累進して工部侍郎となった。当時澣の兄の濤が汴で翰林學士となっており、密かに人を遣わして澣を召した。澣は書を得て医を求めることを口実に南京で服を替え、夜に出て汴に逃げ帰ろうとしたが、涿州で巡邏の者に捕らえられ南京に送られ吏に下された。
  • 澣は獄吏が熟睡するのを見計らい、衣帯で首を吊ったが死ねず、防備がますます厳重になった。上京へ械をかけて送られる途中、黄河の中流に身を投げたが鉄索に牽掣されまた死ねなかった。上京に着くと帝は殺そうとしたが、当時髙勲が既に樞密使であり救って止め、しばしば上に「澣は本来恩に背いたのではなく、母が八十歳であることを急いで省みようとして罪を得たに過ぎません。また澣は文学に富み、当今並ぶ者は少なく、留めて詞命を掌らせれば国体を増光できます」と述べた。帝の怒りはやや解け、なお奉國寺に禁錮すること六年、艱苦は極まった。
  • 折しも上が太宗の功徳碑を建てようとした際、髙勲は「李澣でなければ筆を執れる者はいません」と奏し、詔によりこれに従った。文が成って進められると上は悦び囚を釈放し、まもなく禮部尚書・宣政殿學士を加えられ卒した。

史論

  • 論じて言う。統和・重熙の間、文治を修めることに務め、罕嘉努の対策は落々として数百言に及んだが、その行いにおいても概ね見て取れる。まさに遼の晁錯・賈誼とでも言うべき人物である。李澣は詞章をもって称されたとはいえ、その進退は論ずるに足りない。