遼史卷一百二 列傳第三十二 耶律伊都

出自と経歴

  • 耶律伊都は一名を伊都古といい、國族の近親者。慷慨として気節を重んじた。保太初め副都統を歴任、その妻は天祚の文妃の妹。文妃は晉王を生み、最も賢明であったため国人は皆望みを寄せた。当時蕭奉先の妹もまた天祚の元妃で秦王を生んでおり、奉先は秦王が立てられないことを恐れ、伊都を深く忌み密かに図ろうとした。
  • 折しも耶律達哈拉の妻が軍中で伊都の妻と会った際、奉先は人を使い、伊都が駙馬蕭昱・達哈拉と結び晉王を立てて天祚を太上皇に尊すことを謀ったと誣告させた。事が露見して昱及び達哈拉の妻を殺し、文妃に死を賜った。
  • 伊都は軍中でこれを聞き、恐れて自ら明弁することができず、誅されそうになったため、兵千余人と骨肉の軍帳を率いて叛き女直に帰した。大霖雨に遭い道中で足止めされ、天祚は知奚王府蕭錫黙・北宰相蕭德恭・大詳衮耶律特哩衮・歸州觀察使蕭和尚努・四軍太師蕭斡を遣わして急いで追捕させ、閭山でこれに追いついた。
  • 諸将は「蕭奉先は寵を恃んで害を軽んじる人物だ。伊都は宗室の雄才で決してその下に甘んじないだろう。もしこれを捕らえれば、他日我々自身も伊都のようになるかもしれない。むしろ逃がして『追撃したが及ばなかった』と偽って報告する方がよい」と議し、伊都を見逃した。
  • 伊都は女直に入るとその国の前鋒となり、羅索貝勒の兵を引いて州郡を攻略し、思いがけず現れるので天祚はこれを聞いて大いに驚き、対抗できないと知って衛兵を率いて夾山に入った。
  • 伊都は女直で監軍となったが久しく調(昇進)されず心が落ち着かず、遊猟にかこつけて西夏に逃亡した。夏人が「お前が来たら兵はどれほどいるか」と問うと、伊都は「二三百」と答え、夏人は受け入れず、伊都は卒した。

史論

  • 論じて言う。遼が亡んだのは、天からの災いとはいえ、国政を握った臣がこれを誤らせた側面もある。天慶以降、政は后族に帰し、奉先は天祚が防微(微少な兆しを防ぐ)の計を阻み、晉王を無実の罪で誅させた。夾山の禍はすでにここに見えている。處温は魏王に迫って僭号させ、宋将と結んで国を売った。その姦佞ぶりはまるで一つの軌のようであった。ああ、天祚が頼みとした者がこのようであれば、国が亡びないでいられようか。張琳が控えめに位を守り、伊都が反覆して自ら窮したことなど、また何を議論するに足りようか。