出自と経歴
- 耶律額特埒は字を伊實といい、許國王伊徳實の六世の孫。若い頃は官禄を求めず、四十一歳で初めて本班郎君に補せられた。
- 当時、樞密使の耶律伊遜が権勢をふるい忠良を讒害していたため、額特埒は禍が及ぶことを恐れて自ら深く抑えて畏れた。
- 太康年間、宿直官を歴任し、左右䕶衛太保となる。大安初め燕王傅に昇り、左伊勒希巴に転じた。
- 大安四年、北院樞密副使に改まり、帝は詩を賜って褒めた。知北院樞密使事に遷り、翼聖佐義功臣を賜った。
- 北凖布の酋長磨古斯が叛くと、額特埒は兵を率いて討伐し、大雪に遭いながらも磨古斯の四別部を破り、斬首千余級。西北路招討使を拝命し、漆水郡王に封じられ、宣力守正功臣を加賜された。
- 続いて南府宰相を拝し、再び𤓰爾佳呼喇巴部を討って破った。召されて契丹行宮都部署となった。
- これより先、北南府の訴訟は各州府がそのまま按じることができたが、近年は樞密の檄を得なければ鞫問できず、訴訟が滞っていた。額特埒は旧に復すよう奏請し、認められた。
- 大安五年、再び西北路招討使となり、額圖格爾を討って多数を捕虜・斬殺し、馬・駝・牛・羊各数万を獲た。翌年磨古斯を捕らえ、守太保を加えられ、奉國匡化功臣を賜った。
- 乾統初め致仕を願い出たが許されず、招討の職のみ罷免され、南院樞密使・混同郡王に封じられた。北院樞密使に遷り、守太師を加えられ、推誠贊治功臣を賜って致仕。薨じて諡は敬肅。