遼史卷九十六 列傳第二十六 蕭惟信

蕭惟信

  • 蕭惟信、字は伊聶。卓特部の人。五世祖錫蘭は南府宰相、曾祖烏爾古は中書令、祖阿古齊は平州を知った。父果巴は多智で古今を博覧した。開泰初め、北院承旨となり右伊勒希巴に遷り、幹敏をもって称された。南府宰相を拝したびたび昇進して倒塌嶺節度使となり興中府を知り、再び右伊勒希巴となった。
  • 琳沁が乱を作した際、事が覚れると果巴はこれを按じ首悪だけを誅し余は並びに釈し、帰って奏すると旨に称った。惟信は資質沈毅で学に篤志し弁論に長じた。重熙初め初めて仕え、たびたび昇進して左中丞となった。
  • 重熙15年(1046年)、燕趙国王傅に徙り、帝は諭して「燕趙の左右には諂う者が多く忠言を聞かず次第に性となっている。そなたは道をもって規誨し、君父の義を知らせるべきだ。処すべからざる事が王邸にあれば名をもって聞こえさせよ」と言った。惟信は礼をもって輔導した。
  • 重熙17年(1048年)、北院樞密副使に遷り、事に坐して官を免ぜられたが、間もなく復職し北面林牙を兼ねた。清寧9年(1063年)、重元が乱を作して灤河行宮を犯すと、惟信は耶律仁先に従いこれを破り竭忠定乱功臣を賜った。南京留守・左右伊勒希巴を歴任し、再び北院樞密副使となった。
  • 太康中、老をもって帰ることを乞ったが聴かれなかった。樞密使耶律伊遜が太子を譖廃した際、中外はその冤を知ったが敢えて言う者がなかった中、惟信はしばしば廷争したが果たせず、再び老を告げ守司徒を加えられ卒した。