遼史卷九十三 列傳第二十三 耶律都沁

耶律都沁

  • 耶律都沁、字は達年。積慶宮人。統和間に仕え、性は疎簡で小節を顧みず、人は初めこれをもって短所とした。後に宋を侵す際、羸師を分総して従い、戦になると緋帛を取って介胄に被せて自ら標顕し、馳突して敵陣を出入し格殺すること甚だ多かった。太后は望見して喜び召して「そなたの戮力がこれほどであれば、何を心配して成らないことがあろうか」と言い、厚くこれに賞した。これにより軍事の多くをこれに属任した。
  • 間もなく東北詳衮を授けられ、開泰2年(1013年)進んで準布を討ちこれを克った。重熙間、東路統軍使・天徳軍節度使を歴任し、重熙17年(1048年)西辺に城を築くに際し都沁に地を相せしめ、また戦艦を造らせ楼船百三十艘を成し、上に兵を置き下に馬を立て規制堅壮で旨に称った。
  • 西征に及び都沁に詔して兵を別道より進めて河濵で会させ、敵兵が河に阻んで陣すると帝は戦艦に御して河を絶りこれを撃ち大捷して帰った。自ら卮酒を賜い欲する所を問うと、都沁は「臣は幸いに聖恩を被り駑力を効すことができました。万死してもお報いできません。また何を求めましょうか」と対え、帝はますますこれを重んじ手書して都沁の衣袵に「勤国忠君、挙世無双」と記した。官にて卒した。年70。子迪里は観察節度使を歴任した。

史論

  • 論じて言う。初め遼が三関を復すことを謀った際、蕭惠は宋を伐つ挙を賛し宋人は幣を増して和を請うたが、一勝に狃れて師を西夏に移すと勇智はともに廃れ敗潰が随った。これは小利を貪って遠図を迷わせたのではないか、まして得た所は失った所に償わなかった、その利は果たしてどこにあったのか。同時代の諸将で辺圉を撫綏した者では、頁嚕(雅魯か)は忠勤で誇らず、都勒斡は高情雅韻、都沁は廉においては蕭惠に及ばないが功を邀って釁を啓く罪は無く、また君子の風に庶幾い。