遼史卷九十三 列傳第二十三 蕭托雲

蕭托雲

  • 蕭托雲、字は烏延。北府宰相哈里の子。統和初め、皇太后が制を称すと戚属をもって入侍し、間もなく烏爾古都監となり舒穆嚕等部を討って功があり烏爾古節度使に遷った。統和19年(1001年)、西北路軍事を総領し、後に本路の兵をもって甘州を伐ちその酋長伊蘭を降した。
  • 既にして伊蘭が再び反乱を起こすとこれを討つよう命じられ肅州を克ち、その民を悉く托輝口の故城に遷した。師が還ると詔して金郷公主を娶り駙馬都尉を拝し同政事令門下平章事を加えられた。
  • 上言して「準布は今既に化に服しています。各々分部して節度使を置いて治めるべきです」と言い、上はこれに従った。しかしこれ以降、節度使はしばしば人材でなく部民は怨んで叛くことを思うようになった。開泰元年(1012年)7月、錫林太師阿勒達がその節度使を殺し西のかた鄂爾多城(古のいわゆる龍庭単于城)に奔った。
  • やがて準布が再び反乱を起こし托雲を哈屯城に囲み勢は甚だ張った。托雲は諸軍に斉射させこれを退け、鄂爾多城に屯した。翌年、北院樞密使耶律華格が兵を引いて救いに来ると、托雲は人を遣って諸部を誘い皆降らせた。帝は托雲が初め失計であったとはいえ後に人心を得たことをもってこれを釈し、なお諸部を領させたが、軍を増すことを請うと詔してこれを譲め「叛く者は既に服したのに、兵をどう用いるのか。まして前日の役では死傷が甚だ多かった。もしそなたの謀に従えば辺事はいつ息もうか」と言い、遂に止めた。
  • 折しも公主が家婢を殺した罪に坐して郡主に降封され、托雲は罷めさせられ、間もなく烏爾古徳哷勒詳衮となり、老をもって代還され卒した。子雙寛は南京統軍使。孫額圖琿は三韓郡王赫嚕の女固頁公主を娶り、烏爾古徳哷勒部統軍使に終わり、善戦をもって世に名を知られた。