遼史卷九十三 列傳第二十三 蕭雅魯

蕭雅魯

  • 蕭雅魯、字は和爾沁。五院部の人。父揚珠は歴宮節度使。雅魯は重熙間、牌印郎君となった。清寧9年(1063年)、国家が既に重元の乱を平らげ、その党郭九らが逃亡すると詔して雅魯にこれを追捕させ獲た。護衛太保に遷り、咸雍元年(1065年)宋に使いして辺事を議し旨に称い知殿前副点検事となった。
  • 咸雍5年(1069年)、準布が反乱を起こすと行軍都監となりこれを撃破し俘獲が甚だ多かった。初め軍が出た際に五月分の粮しか給せられず、期を過ぎると粮が乏しくなり士卒はしばしば叛帰した。雅魯は失計に坐して官を免ぜられ西北部への降戍とされたが未だ行かぬうちに北部の兵が起こり、雅魯は烏爾古徳哷勒の兵を将いてこれを破った。戦うたびに身を先んじたのでこれにより前罪を釈され烏爾古徳哷勒部の総知を命じられた。
  • 咸雍9年(1073年)、徳哷勒が反乱を起こすと都監耶律都木達は兵少なく戦わず臚朐河に屯し、徳哷勒は辺人を合わせて居民を掠めた。雅魯は力戦してこれを破り輜重を獲て、続いて酋長和卓が三千余騎で附近の部落を掠めていると聞くと兵を縦してその後を躡し連戦二日にして数千級を斬り、被掠の人畜を尽く得て還った。折しも徳哷勒の党五百余騎が捕鷹戸を刼すと逆撃してこれを走らせ俘斬は甚だ多かった。これより徳哷勒の勢は沮んだ。
  • 当時徳哷勒はまさに辺患となり準布も相継いで宼掠し辺人は疲弊していたが、朝廷は地が遠く時に援軍を増すことができない中で疆圉が帖然としたのは皆雅魯の力によるものであった。帝はその功を嘉し左皮室詳衮を拝した。折しも宋が天池の地を求めると詔して雅魯に両皮室軍を兼統させ達里庫山に屯してこれに備えた。
  • 太康初め、準布が反乱を起こすと西北招討都監に遷り、都統耶律卓克算に従って征討し功があり、南京統軍都監・黄皮室詳衮に改まり、間もなく東北路統軍都監に遷り卒した。弟は都勒斡。