遼史卷八十八 列傳第十八 蕭巴雅爾

蕭巴雅爾

  • 蕭巴雅爾、字は韓隠。国舅少父房の後で、多智略、騎射を善くした。統和初め、左皮室詳衮となり凖布を討って功があった。統和4年(986年)、宋将曹彬・米信の兵を望都で破った。軍事に疑いがあるたびに参決に預かり、間もなく永興宮分糺及び錫里・伊喇の二皮室等の軍を総べ、樞密使耶律色珍と共に山西の陥城を回復した。この冬、宋の隷を攻め先鋒として蒲城を囲み、所部を率いて先登しこれを抜いた。
  • 南京統軍使に改まり、衛国公主を娶り駙馬都尉を拝し、同政事門下平章事を加えられた。統和13年(995年)、北南院宣徽使を歴任し時政の得失及び賦役法を条上し、上はこれを嘉納した。統和15年(997年)、政事令を加え東京留守に遷った。
  • 統和22年(1004年)、再び宋を攻め渤海軍で徳清軍を下した。後、蕭達林が卒すると専ら南面の事を任され、宋との和議が成って北府宰相となった。聖宗が高麗を征する際、兵を率いて北道より進み開京西嶺に至って敵軍を破り数千級を斬った。高麗王詢は懼れて平州に奔り、巴雅爾は開京に入り大掠して還った。帝はこれを嘉し蘭陵郡王に封じた。
  • 開泰2年(1013年)、宰相として西南面招討使を知り、開泰5年(1016年)東平王に進封された。巴雅爾の政は寛裕で諸部の断案を善くし、諸部は畏愛し民は殷富となり、当時これを称える議論が多かった。開泰7年(1018年)、再び高麗を伐ち開京に至ると敵は奔潰し、兵を縦して俘掠して還ったが、茶陀・二河を渡る際に敵に挟撃され、巴雅爾は甲仗を委てて走り、官を免ぜられた。太平3年(1023年)、再び豳王に封ぜられ薨じた。弟に恒徳。