澶淵の役で戦死した統軍使
- 蕭達林、字は馳寧。蕭思温の再従姪で、父の珠埓哩は馬の相見に長けていた。応厯年間、馬羣侍中となる。達林は幼くして敦厚で才略があり天文に通じ、保寧初年、宿直官として困難な任務を歴任した。統和四年、宋の楊継業が代州から侵攻し城邑を陥落させた際、達林は諸軍副部署として枢密使耶律色珍に従いこれを破り、朔州で継業を捕らえた。
- 統和六年秋、南院都監に改まり駕に従い南征、沙堆攻撃で力戦して負傷し太后自ら見舞った。翌年、右監門衛上将軍・検校太師を加えられ彰徳軍節度使を遙授された。統和十一年、東京留守蕭恒徳と共に高麗を討伐し破り、高麗は臣従して貢を奉じた。
- 統和十二年夏、夏(西夏)が辺境を脅かした際、皇太妃が烏爾古・永興宮分の軍を総べて討伐、達林は準布都詳衮となり軍中の号令はすべて太妃から達林に委ねられた。師の帰還後、功により兼侍中を加えられ蘭陵郡王に封じられた。統和十五年、徳哷勒部の人が詳衮を殺して叛き西北の荒地に逃れると、達林は軽騎でこれを追い、あわせて服属していなかった準布を討った。以後、諸部は毎年貢物を献じるようになり、帝は詩を賜って賞賛し、林牙耶律昭に功を称える賦を作らせた。
- 達林は諸部の叛服が定まらぬことを憂い、三城の建設で辺患を絶つよう上表し許された。まもなく召されて南京統軍使となる。統和二十年、再び宋討伐に赴き、その将王先知を捕らえ遂城下の祁州で軍を破り、帝は手詔で褒めた。澶淵まで進んだ際、宋主は城隍の間に軍を構え未だ交戦していなかったが、達林は地形を視察し宋の羊観・塩堆・鳬雁で伏弩に当たり、翌日轊車に運ばれるまでに至った。太后は慟哭し五日間朝を輟めた。子の繅古は南京統軍使となった。