遼史卷八十四 列傳第十四 耶律善補
攻めを恐れて戦機を逃した将
- 耶律善補、字は瑤昇。孟父楚国王の後裔で純朴謹厳、才智があった。景宗即位後、千牛衛大将軍を授かり大同軍節度使に遷った。宋討伐では韓匡嗣・耶律沙が東路を、善補が南京統軍使として西路を進んだが、匡嗣の敗報を聞き軍を収めた。乾亨末年、宋軍と満城で戦った際、伏兵に囲まれたが色珍の救援で難を逃れ、備えを怠った罪で大杖の刑を受けた。
- 統和初年、特哩衮となり、宋の来侵に都元帥として応じたが戦わず、嶺西の州郡が多く陥落した。特哩衮を罷免されたが、叔父の安圖に世宗擁立の功があったため、帝は憐れみ南府宰相に召し、南院大王に遷した。宋への再討伐で魏府攻撃を協議した際、諸将は魏城の防備が薄いとして攻撃を主張したが、善補は「城は大きく規模が測れず、もし落とせば士卒は掠奪を貪り制御が難しくなる。周囲には巨鎮が多く援兵も来る、内に強敵を抱えてどう対処するのか」と反対し帝はこれに従い中止した。善補は性格が慎重で守勢を好み、攻戦をためらう傾向があったため戦績は振るわなかった。74歳で卒した。