遼史卷八十三 列傳第十三 耶律休格

字は遜寧。景宗・聖宗の二代に南面の軍事を統轄し、宋との高梁河・満城・瓦橋関・統和四年の大戦でたびたび宋軍を撃退した名将。宋人が子供の夜泣きを止めるのに「裕悦(休格)が来るぞ」と言ったと伝わる。統和十六年薨去。

年表(6件)
  • 応厯末年特哩衮となる
  • 乾亨元年北院大王希達に代わり五院軍を率いて南京を救援し、高梁河で宋軍を撃破、三十余里追撃して首級一万余を挙げる
  • 乾亨元年冬韓匡嗣・耶律沙の宋討伐に従軍し満城で戦い、匡嗣の油断による敗走を軍を整えて反撃し敵を退ける。詔により南面戍兵を総轄し北院大王となる
  • 統和四年宋の范密・楊継業・曹彬・米信の侵攻を涿州で撃退し、宋国王に封じられる
  • 統和七年宋の劉廷譲らの易州侵攻を沙河の北で撃退し、太后より拝礼を免じられ名を呼ばれぬ栄誉を受ける
  • 統和十六年薨去。その夕べ雨氷が生じ、聖宗は南京に祠を立てさせる

「裕悦至矣」と宋人を恐れさせた名将

  • 耶律休格、字は遜寧。祖は隋国王実嚕、父は南院額爾竒木烏蘇。少壮より公輔の器を持ち、烏爾古室韋の叛乱を北府宰相蕭斡に従って討伐した。応厯末年、特哩衮となる。乾亨元年、宋が燕に侵攻し北院大王希達・統軍使蕭托果らが敗れ南京が包囲された際、帝の命により希達に代わり五院軍を率いて救援に赴き、高梁河で大敵と遭遇、耶律色珍と左右翼に分かれて撃破、三十余里追撃し首級一万余を挙げた。休格は三度負傷したが、翌朝宋主は逃走した。休格は傷を負いながらも軽車で涿州まで追ったが及ばず引き返した。
  • 同年冬、韓匡嗣・耶律沙の宋討伐に従軍し満城で戦った際、宋軍が偽って降伏を申し出た。匡嗣がこれを信じたが、休格は「彼らは整然として鋭く、決して屈するはずがない。誘いだ、備えるべきだ」と警告したが匡嗣は聞かず、休格は高地から様子を見ていた。まもなく宋の大軍が来襲し、匡嗣は不意を突かれ士卒は旗鼓を捨てて敗走したが、休格は軍を整えて反撃し敵を退けた。詔により南面戍兵を総轄し北院大王となった。
  • 帝の親征で瓦橋関を包囲した際、宋の救援将張師の突囲を休格が斬り、残兵は退いた。水南に陣する宋軍に対し、帝は休格の馬が敵に知られていることを慮り玄甲・白馬に替えさせた。休格は精騎を率いて渡河し撃破、莫州まで追撃して屍が道に満ち、矢を撃ち尽くすほどであった。帝は御馬・金盂を賜い「お前の勇はその名を超える」と称賛した。師の帰還後、裕悦を拝命。
  • 聖宗即位・太后称制の下、休格は南面軍務を総轄し便宜行事の権を得て、戍兵の交代法を定め、農桑を勧め武備を修めたことで辺境は安定した。統和四年、宋の范密・楊継業が雲州から、曹彬・米信が雄・易から侵攻し岐溝・涿州を陥し屯を置いた際、北南院・奚部の兵は休格の兵力が寡少なことを知らず出撃を控えた。休格は夜に軽騎を送って敵の弱点を撃ち、昼は精鋭で威を張って敵を疲弊させ、糧道を伏兵で断った。曹彬らは糧運の途絶により白溝まで退き、再度進軍したが休格は軽兵でこれを薄く撃ち、離隊者を各個撃破しながら退かせた。
  • 宋軍は自救に追われ方陣を組み塹壕を掘りながら四日かけてようやく涿州に達した。太后軍の接近を聞いた曹彬らは雨中に逃走。太后は精鋭を追撃させ、宋軍は糧車で防御を固めたが休格が包囲、夜に彬・信は数騎で逃走し残兵は潰えた。易州東で数万の宋軍と遭遇した際も休格は追撃を主張し、宋軍は敗走して岸から転落死する者が続出し沙河が塞がるほどであった。太后は凱旋し、休格は宋軍の屍を集めて京観を築き宋国王に封じられた。休格は「宋の弱みに乗じて黄河まで領土を広げるべき」と上言したが採用されなかった。
  • 太后の南征では先鋒として望都で宋軍を破った。宋将劉廷譲が数万騎で海沿いを進み、李敬源と合流して燕を狙った際も、休格は先んじて要地を扼し、太后軍到着とともに敬源を討ち廷譲を瀛州まで退けた。統和七年、宋の劉廷譲らが暑潦に乗じて易州を攻めた際も、他の諸将が恐れる中、休格は沙河の北で撃退、獲得した輜重は計り知れないほどであった。太后はその功を賞し拝礼を免じ名を呼ばぬこととした。これ以降宋は北進を控え、宋人は子供の夜泣きを止めるのに「裕悦(休格)が来るぞ」と言ったという。
  • 休格は疲弊した燕の民を思い賦役を軽減し孤寡を恤み、戍兵に宋境を犯さぬよう戒め、逃げた牛馬も返還させたため遠近が帰服した。統和十六年薨じ、その夕べ雨氷(木に氷が着く異象)が生じた。聖宗は南京に祠を立てさせた。休格は智略に富み戦況を的確に見抜き、勝利のたびに功を諸将に譲り、幾多の戦を経ても無辜を殺したことがなかった。子の果巴は節度使、果実は裕悦に至り、孫は瑪格。

瑪格(耶律休格の孫)

  • 瑪格、字は額特埒。興宗の代、散職として謁見した際「仏に仕えるか」と問われ「毎朝、太祖・太宗と亡父の遺訓を誦しており、仏に仕える暇はない」と答え帝を喜ばせた。清寧中、唐古部節度使、咸雍中、匡義軍節度使を歴任し太康初年に致仕して卒した。