河東情勢を見抜いた智将
- 耶律和克、字は海蘭。六院額爾竒木迪里の孫で、聡明かつ約諾を重んじる人柄。保寧初年、御琖郎君に補せられ、保寧十年に宋への使いより戻った際、宋が河東を取ろうとする意図を帝に報告した。燕王韓匡嗣が「なぜそう分かるのか」と問うと、和克は「僭号する諸国は宋に併呑されつつあるが、河東だけがまだ落ちていない。今、宋が武を講じ戦を習っているのは河東を狙ってのことだ」と答えたが、匡嗣はこれを退けた。翌年、果たして宋は北漢を伐った。帝は和克の先見の明を認め「匡嗣も及ばぬ見識」と評し、涿州刺史を授けた。
- 統和初年、皇太后の称制で京師に召された際、韓徳讓と事で衝突し、徳讓が怒って護衛の武器を取り、その頭を打って死に至らしめた。子の穆爾古。
穆爾古(耶律和克の子)――負傷しても前線に立ち続けた勇将
- 穆爾古、字は遙隱。智識・弓術に優れ、統和初年、南面林牙を拝命。統和四年、宋の燕侵攻に際し太后の親征に前鋒として従い、流矢に当たりながらも矢を抜いて進撃を続けた。太后到着後、傷のため戦えなくなり、北府宰相蕭繼先と共に境上を巡邏した。北院大王に累進し、統和七年の宋討伐でも先鋒として耶律諾衮と共に将の李忠吉を定州で破ったが、病により軍中で卒した。
史論
- 論にいう。徳讓は統和年間、将相を兼ね敵に勝ち賢を進め国を輔けた功業は大きい。姓名を賜り王として齊・晉に封じられたのは太后に寵愛された結果だとしても、宗族の中で徳威が党項を平定し、逹魯が祭祀を完うし、制心が私に阿らなかったことにも由来があろう。巴古濟の忠、揚阿克の孝、武白の直も、いずれも一代の良臣というべきである。