連坐の法を改めた実務家
- 耶律阿穆爾、字は布琳。約尼兆古汗の四世孫。幼くして聡敏、保寧年間に南院宣徽使となる。統和初年、皇太后の称制時、耶律色珍とともに国論に参預し都統となり、高麗討伐の功により北院宣徽使に遷り、政事令を加えられた。
- 統和四年、宋将曹彬・米信らが燕に侵攻した際、帝の親征に都監として従い、幾度も敵軍を破った。統和十二年、行在に盗賊が多発した際、禁捕法を定めて盗を鎮めた。
- それまで叛逆者の家では、事情を知らない兄弟までも連坐させられていたが、阿穆爾は「兄弟は同胞とはいえ性質は異なる。謀反を知らずにいた者まで法で連坐させるのは無実の罪を科すことになる」と諫め、太后はこれを嘉納し法令として制定された。致仕後に卒した。
- ただし阿穆爾は蓄財を好み、遠征のたびに掠奪した人口を集めて城を築き、豊州の設置を求め、家奴の閻貴を刺史とするなど、世評ではこの点を鄙しんだ。子の賢格は左伊勒希巴となった。
史論
- 論にいう。景宗の世に中興が望まれたのは、単に帝が政務に勤しんだからではなく、多くの賢臣が左右で補佐した力によるところが大きい。室昉が「無逸篇」を進め、郭襲が狩猟を諫める疏を陳べ、阿穆爾が連坐の免除を請うたのは、いずれも仁者の言葉であり、その利益は広く及んだ。賢適の忠実さも近世の名臣に数えられる。一方、紐哩の貪猥さは後人が戒めとすべきものである。