遼史卷七十三 列傳第三 耶律實訥齊

生涯

  • 字は薩喇。六院部錫里尼古察の一族、初名は堆音。早くから太祖の幕下に仕え、病の折に賜った酒を飲んで治ったことから字を薩喇に改めた。太祖即位後は腹心部を掌り、天贊初年に徳哷勒部が北南院に分かれると北院の額爾竒木となった。太祖の西征では散らばった諸夷を撫集し、渤海の扶餘城攻めでは太子大元帥に従い輝罕城を包囲、大諲譔の降伏・再叛後には士気を鼓舞して城を陥落させた。天顯中、70歳で卒し佐命功臣の一人に数えられた。姪に隆科・佛徳がいる。

隆科(附伝)

  • 字は薩蘭。母は淳欽皇后の姉。幼くして宮掖で養われ、長じて沈毅で勇略に優れ太祖の帳下に属した。即位後たびたび戦功をあげ、埒克の乱で偽って降伏を装う逆党に備えて号令・士卒を厳しく整え、変事を未然に防いだ。右皮室詳衮として宿衛を典り、唐兵と雲碧店で戦った際、勇に逸って重傷を負い陣没した。太祖はその死を深く悼み、佐命功臣の一人に数えた。

佛徳(附伝)

  • 字は烏庫哩。弱冠で太祖に仕え、天顯初め左皮室詳衮として宿衛を典り、南院額爾竒木となって治績を挙げた。石敬瑭が太原北で張敬達軍を破った際は援軍として後詰を務め、潞州への糧道遮断に功をあげた。会同初め徳哷勒部の額爾竒木を「大王」と改称した際に拝され、採訪使も兼ねた。横帳の班列を北南院と同列にすべきという耶律實迪の議に対し、佛徳は身分制度を乱すものとして異を唱え、太宗も百官に「朕の関知せぬところで従うべからず」と告げて旧制を維持させた。太祖はかつて佛徳を見て「風骨凡ならず、必ず国器となる」と評しており、その言の通り、49歳で卒した。