遼史卷七十三 列傳第三 蕭達魯

生涯

  • 字は達年。母は徳祖の妹、淳欽皇后とは兄妹の関係にあった。五世祖の瑚穆哩は約尼氏の使者として唐に赴き幽州で抑留されたが脱出して帰国、以後その一族は代々決獄官を世襲した。達魯は寛厚で膂力絶人、軍旅に通じ、太祖が潜龍のころから常に側にあり征討に随行した。
  • 太祖即位後、弟阿古齊・耶律實嚕・耶律赫嚕とともに宿衛を統べ、北府宰相に拝され世襲となった。奚討伐・劉守光討伐で海浜を略地して多くを捕獲。埒克らの乱に際しては軽騎を率いて追撃し榆河でこれを破り埒克を捕えて献じた。太祖はこれを厚く賞し、後の西南夷討伐でも諸将に先んじる功をあげた。神冊3年12月に卒。胆略に優れ敵情を知れば直ちに馳せ参じ、矢石を冒して戦い一度も敗れなかった功臣として、太祖は「手」になぞらえた。弟に阿古齊がいる。

阿古齊(附伝)

  • 字は薩巴。若くして卓越し自由奔放、驍勇善射で敵に臨めば先んじ、射た矢は甲楯を貫いた。太祖が裕悦のころから才勇を用いられ、即位後は達魯とともに腹心部を統べた。埒克の乱で淳欽皇后が黒山に籠った際、太祖は阿古齊に百騎を率いて護衛させ、逆党もその勇略を恐れて手出しを控えた。埒克北走の際は達魯と共に榆河で捕らえ、神冊初年は西南夷討伐・山西諸郡の攻略・周徳威軍撃破に功をあげ、神冊3年に北府宰相を世襲した。
  • 天贊初年、王郁とともに燕趙を略し磁窯鎮を破った。太祖西征の際は南面の辺事を委ねられ、渤海攻めでは扶餘城を破り、単独で騎兵五百を率いて渤海の老相軍三万を打ち破った。渤海平定・東丹改編後、叛乱鎮圧に功があり、鴨淥府からの援軍七千を迎撃して大破、輝發城を破って病没した。功臣中では「耳」になぞらえられた。子の安圖は右皮室詳衮に至った。