遼史卷七十二 列傳第二 晉王

晉王道隱(附伝)

  • 字は留隱、母は髙氏。父人皇王が従珂の害に遭った当時幼く、洛陽の僧に匿われ養われたため道隱と名づけられた。太宗の唐討滅後に還り、外羅山の地を賜った。沈静で文武の才があり評判が高かった。景宗即位後蜀王に封じられ上京留守、乾亨元年南京留守、後に荆王に徙封され、統和初に病没し晉王に追封された。

史論(義宗)

  • 新たに国を興した王朝で、太子が跡目を譲る例は稀であり、義宗はその点で立派であった。しかし譲位したにもかかわらず疑われたのは、建元・称制の当初にすでに兆していたのではないか。書を抱いて海を渡り異国に身を寄せながらも思親・問安を絶やさなかった心根は誠に憐れむべきである。太伯の賢を慕う心から始まり、陳恒の悪を憎んで討伐を請う挙で終わる志の高潔さは、早く孔子祭祀を進言したことに既に表れていた。だが善終を得られなかったのは天道の測りがたさか、あるいは刻薄嗜殺の性の招くところか。とはいえ遼の代々の賢聖は皆その子孫であり、至徳の報いは明らかである。

章肅皇帝(魯呼)――生涯

  • 小字は魯呼、一名鴻観、字は奚隱。太祖の第3子、母は淳欽皇后舒嚕氏。勇悍で膂力があったが残酷な面もあり、些細な怒りで人の顔を黥したり水火に投じたりした。太祖が諸子の寝姿を見て「魯呼は将来他の子に劣るだろう」と評したり、薪拾いの逸話でも「兄は巧み、次は成るが、末は及ばない」と評されたが、母は魯呼を篤く愛した。
  • 天顯5年、代北攻略で戦功をあげ皇太弟兼天下兵馬大元帥に立てられた。太宗親征中は京師を留守。世宗即位後、太后の怒りを受けて兵を挙げるも敗れ、太后と世宗が潢河を挟んで対峙する事態となったが和議が成立。後に太后との廃立謀議が発覚し祖州に幽閉、穆宗代にその子喜隱の謀反に連座して獄死。享年50。統和中に欽順皇帝と追諡、重熙21年に章肅と改諡。后は和敬。2子は宋王喜隱・衞王完。

宋王喜隱(附伝)

  • 字は完德。雄偉で騎射に長けたが、応暦中の謀反発覚で赦されたのち復反して下獄。景宗即位後、恩赦を待たずに自ら械を外して出頭したため罰せられたが、保寧改元とともに宥され皇后の姉を妻に迎え王爵に復した。軽薄で驕慢な性格から再び謀反を企て、囚われの身のまま宋の降卒200余人に擁立されかけたが果たせず、子留禮壽も伏誅、喜隱は死を賜った。

史論(章肅皇帝)

  • 魯呼は残酷驕盈であったが、太祖はその不才を知りつつ十分教導せず、太后は悪を知らず溺愛した。烏哲の諫言で一旦世宗の即位が定まったのに再び廃立を謀り、子孫は逆謀の罪で誅殺された。太祖の代からすでに埒克安圖らが禍乱を先導し、太祖は誅さずかえって用いたことは度量の広さを示す一方、その才あってこそ制御できたに過ぎない。以後も宗王の反側は絶えず、遼の内難は国の始終に及んだ。創業垂統の主が子孫への配慮を怠れなかった所以である。

順宗(濬)――生涯

  • 名は濬、小字は伊囉斡。道宗の長子、母は宣懿皇后蕭氏。幼くして聡慧、学を好んだ。6歳で梁王、翌年狩猟で三矢すべて命中させ道宗に称賛された。8歳で皇太子に立ち、太康元年北南枢密院事を兼領した。
  • 母后が害された後憂色を見せたため、樞密使耶律伊遜は不安を抱き、護衛蕭和克の謀害事件を機に副㸃検蕭錫沙らと結んで太子を陥れる陰謀を企てた。誣告の連鎖により太子は幽閉、耶律雅克による審問で供述を改竄されて庶人に落とされ、上京に幽閉の末、伊遜の遣わした刺客に殺害された。享年20。上京留守蕭塔坦は病死と偽って報告し、道宗は後に葬を龍門山に命じ、真相を知って悔恨した。諡は昭懐太子、乾統初に大孝順聖皇帝と追尊され廟号を順宗とした。妃蕭氏は貞順皇后。一子延禧は後の天祚皇帝。

史論(順宗)

  • 道宗は太子の賢を知りながら伊遜の詐を見抜けず、父子の情を断ってしまったのは万世の惜しみとするところである。伊遜は一身の計を知るのみで君臣の義を弁えず、まして太子への忠義など知る由もなかった。姦邪の臣が人の家国を乱すさまはかくの如く、深く戒めるべきである。

生涯

  • 小字は額嚕温。天祚皇帝の長子、母は文妃蕭氏。幼くして馬術・弓に優れ、大丞相耶律隆運の後を継いで晉王に封じられた。人柄は謙虚で他人の善を語り自らを誇らず、宮中で読書する者を目にすると人払いをして遠慮するほどであった。長じて人望を集め内外の信頼を得た。
  • 保大元年、南軍都統耶律伊都が母文妃と密かに擁立を謀るが露見し伊都は金に降り文妃は誅された。額嚕温自身は謀議に与らなかったため免れたが、2年後にも耶律薩巴らによる擁立の陰謀が発覚。天祚帝は額嚕温が人望を得ていることを知りつつも誅殺は忍びず、絞殺を命じた。逃亡を勧める者もあったが、臣子の大節を失うより死を選んで従容と就死し、聞く者を悲しませた。

史論(晉王)

  • 天祚帝が君主としての務めを果たさなかったため、臣下がその子を擁立しようと謀り、かえってこれを死に追いやった。額嚕温が君父の命を重んじて逃げずに死んだのは、申生の恭に等しいものであろう。