総説(地理志の由来)
- 帝堯は天下を分けて九州とし、舜は冀州・青州の地が広大なため、幽・并・営の三州を分けて十二州とした。幽州は渤海と碣石の間にあり、并州の北には代・朔があり、営州は東に遼海まで及んだ。この地は山を負い海を帯びて、民は干戈を執って武備に努め、風気は剛勁で、古来より用兵の地であった。
- 太祖は徳哷勒部の衆をもって約尼氏に代わり、臨潢に興って皇都を建てた。東は渤海を併合し、城邑の居るところ百三か所を得た。太宗は晋を立て、幽・涿・檀・薊・順・営・平・蔚・朔・雲・応・新・媯・儒・武・寰の十六州を有するに至った。こうして古の幽・并・営の境を割いて跨有し、東は高麗を朝貢させ、西は夏国を臣とし、南は石晋を子とし、趙宋・呉越・南唐とは兄弟の礼をもって交わり、これらは航海して貢を輸した。まことに盛んなことであった。
- 遼国の先祖を契丹といい、もと鮮卑の地であった。遼澤の中に居り、楡関を去ること千百三十里、幽州を去ることさらに七百十四里。南は黄龍を控え、北は潢水を帯び、右には冷陘の屏があり、左には遼河の塹と高原があって、楡柳が多く、低湿の地には蒲葦が豊かであった。元魏の時代には数百里の地を有するにとどまったが、唐代になると達呼哩氏が扶餘・室韋・奚・靺鞨の地を蚕食し、方二千余里に及んだ。貞観三年、その地に玄州を置き、ついで松漠都督府を置いて八部を州に建て刺史を置いた。徳済部を峭落州、赫伯部を弾汗州、都呼部を無逢州、芳阿部を羽陵州、図勒彬部を日連州、芮奚部を徒河州、卓津部を万丹州、富部を匹黎・赤山の二州とし、達呼哩氏の庫克を使持節十州軍事とした。州を分けて官を建てたのはこれに始まる。
- 五代に至って東西三千里の地を開き、約尼氏は改めて八部とした。達爾扎部・伊斯琿部・舎琿部・諾爾威部・婆摩部・訥古済部・済勒錦部・実衮部で、属県は四十一。部ごとに刺史を、県ごとに令を置いた。太宗は皇都を上京とし、幽州を昇格させて南京とし、後に南京を東京と改めた。聖宗は中京を築き、興宗は雲州を昇格させて西京とし、これで五京が揃った。また征伐の俘戸をもって要衝の地に州を建て、多くはもとの居地の名にちなみ、私奴を加えて投下州とした。総じて京5・府6・州軍城156・県209・部族52・属国60を有し、東は海に至り、西は金山を経て流沙に至り、北は臚朐河に至り、南は白溝に至る。その版図は万里に及んだ。
上京道
上京臨潢府
- 上京臨潢府はもと漢の遼東郡西安平の地で、新の莽の代には北安平と呼ばれた。太祖は天梯・博囉ら三山の地勢を得て葦甸で金齪の矢を射てこの地を定めたといい、龍眉宮と称した。神冊三年に城を築いて皇都と名づけ、天顕十三年に上京と改め、府を臨潢とした。
- 淶流河は西北から南に流れて京を三面にめぐり、東は曲江に入る。その北は東に流れて按春河となる。ほかに御河・沙河・黒河・潢河・鴨子河・塔魯河・狼河・蒼耳河・輞子河・臚朐河・陰涼河・瀦河・鴛鴦湖・興国湖・恵民湖・広済湖・鹽濼・百狗濼・火神淀があり、山には馬盂山・皃児山・野鵲山・鹽山・鑿山・松山・平地松林・大斧山・列山・庫哩山・魯塔山があって、唐が封じた達呼哩氏の勒特王の墓が今も残る。戸は3万6500、軍・府・州・城25を管轄し、統県は10。
- 臨潢県:太祖の天賛初め、南の燕・薊を攻めて得た俘虜を潢水の北に散居させた。県が潢水に臨むためこの名がつき、地は種植に適した。戸3500。
- 長泰県:もと渤海国長平県の民。太祖が大諲譔を伐ってまずこの邑を得て、その民を京の西北に遷し漢民と雑居させた。戸4000。
- 定霸県:もと扶餘府強師県の民。太祖が扶餘を下してその民を京の西に遷し漢人と雑処させ土地を分けて耕種させた。統和八年、諸宮提轄司の人戸をもって置き長寧宮に隷した。戸3000。
- 保和県:もと渤海国富利県の民。太祖が龍州を破って富利県の人をことごとく京の南に散居させた。統和八年、諸宮提轄司の人戸をもって置き彰愍宮に隷した。戸4000。
- 潞県:もと幽州潞県の民。天賛元年、太祖が薊州を破って潞県の民を掠め、京の東に布いて渤海人と雑処させた。崇徳宮に隷す。戸3000。
- 易俗県:もと遼東渤海の民。太平九年、大延琳が謀を結んで遼東の人が叛き、囲んで守ること経年ののち降ったので、ことごとく京の北に遷して県を置いて居らせた。この年、さらに渤海の叛人の家属を徙してここに置いた。戸1000。
- 遷遼県:もと遼東諸県の渤海人。大延琳の叛乱の際、謀勇の者を選んでその左右に置いたが、後に城が降ったのでこれを戮し、その家属を京の東北に徙したのでこの名がついた。戸1000。
- 渤海県:もと東京の人で、叛乱にちなんで遷し置かれた。
- 興仁県:開泰二年に置かれた。
- 宣化県:もと遼東神化県の民。太祖が鴨淥府を破ってその民をことごとく京の南に遷した。統和八年、諸宮提轄司の人戸をもって置き彰愍宮に隷した。戸4000。
- 上京は太祖創業の地で、山を負い海を抱いて天険が固めとするに足り、地味は沃えて耕作に適し、水草は畜牧に便がよかった。金齪の一矢が二百年の基を壮んにしたのである。天顕元年、渤海を平定して帰ると、郭を広げ宮室を建て、名を天賛と称し三大殿(開皇殿・安徳殿・五鑾殿)を起こした。中には歴代帝王の御容が安置され、毎月の朔望・節辰・忌日には在京の文武百官がすべて参じて祭を行った。また内城の東南隅に天雄寺を建てて烈考宣簡皇帝の遺像を奉安した。この年、太祖が崩じ、応天皇后は義節寺で腕を断って太祖の陵に納め、寺には断腕楼を建てて碑を樹てた。太宗は晋の建国を援け立てた際、宰相の馮道・劉煦らに節を持たせ鹵簿・法服を具えてここに至らせ、太宗および応天皇后に尊号を冊した。太宗は詔して番部にすべて漢制に依らせ、開皇殿に御して承天門を開いて礼を受け、これにより皇都を上京と改めた。
- 城の高さは二丈、敵楼は設けず、周囲は27里。門は東に迎春・鴈児、南に順陽、西に金鳳・西鴈児・南福があった。その北を皇城といい、高さ三丈で楼櫓があり、門は東に安東、南に大順、西に乾徳、北に拱辰があった。中に大内があり、内の南門を承天といい楼閣を有し、東門を東華、西門を西華といい、これが内城への出入りの通路であった。正南の街の東には留守司の衙があり、次に鹽鉄司、次いで南門の龍寺があった。街の南は臨潢府といい、その側に臨潢県、県の西南に承天皇后の建てた崇孝寺、寺の西に長泰県、さらに西に天長観、西南に国子監、監の北に孔子廟、廟の東に節義寺、さらに西北に太宗の建てた安国寺があり、寺の東に斉天皇后の故宅、その東に元妃の宅(法天皇后が建てた)があった。その南には聖尼寺・綾錦院・内省司・麴院があり、贍国省司の二倉はいずれも大内の西南にあり、八作司は天雄寺と向かい合っていた。南城は漢城といい、南に当たる横街の各所に楼が向かい合って建ち、その下に井戸・市肆が並んでいた。東門の北には潞県、さらに東南に興仁県、南門の東には回鶻の商人が留まり住む回鶻営があった。その西南には諸国の信使が滞在する同文駅があり、駅の西南には夏国の使者を待つための臨潢駅があり、駅の西に福先寺、寺の西に宣化県、西南に定霸県、県の西に保和県、西門の北に易俗県、県の東に遷遼県があった。
- 周の広順年間、胡嶠の記に曰く、上京西楼には邑屋・市肆があり、交易には銭を用いず布を用いる。綾錦の諸工作や、宦者・翰林・伎術・教坊・角觝・儒僧・尼・道士がおり、中国人は并・汾・幽・薊の出身者が多い、と。
- 宋の大中祥符九年、薛映の記に曰く、上京は中京の正北八十里にあって、松山館に至るには七十里、崇信館に至るには九十里、広寧館に至るには五十里、姚家寨館に至るには五十里、咸寧館に至るには三十里、潢水の石橋を渡ればその傍らに饒州がある(唐が契丹に饒楽令を置いた地で渤海人が住んでいた)。そこから五十里で保和館、黒水河を渡って七十里で宣化館、五十里で長泰館(館の西二十里には仏舎・民居があり、これがすなわち祖州である)、さらに四十里で臨潢府に至る。崇信館を過ぎるとそこから先はすでに契丹の旧境であり、その南は奚の地である。西門(金徳門)から入ると内に臨潢館の子城があり、東門を順陽といい、北行して景福門に至り、さらに承天門に至る。内には昭徳・宣政の二殿があり、氈廬とともにいずれも東を向いていた、と。臨潢の西北二百余里には涼淀と号する地があり饅頭山の南にあって避暑の地であった。豊草が多く、地を一丈余り掘れば堅氷があった。
祖州
- 祖州は天成軍上節度で、もと遼の右八部紳穆里の地である。太祖が秋の狩猟でしばしばここに来て初めて西楼を置き、後に城を建てて祖州と号した。高祖昭烈皇帝・曽祖荘敬皇帝・祖考簡献皇帝・皇考宣簡皇帝の生まれた地であることから、この名がついた。城の高さは二丈、敵棚は設けず、周囲は九里。門は東に望京、南に大夏、西に液山、北に興国という。西北隅には内城があり、両明殿には祖考の御容を奉安し、二儀殿には白金で鋳た太祖の像がある。黒龍殿・清秘殿にはそれぞれ太祖が微賤であった頃の兵仗・器物や服御・皮毳の類が保存されており、後嗣に本を忘れさせないためのものである。内の南門は興聖といい、あわせて三つの門があり上に楼閣を、東西に角楼を有した。東には州廨および諸官の廨舎、綾錦院、班院があり、祗候の番・漢・渤海の民三百人が内府の求めに応じて供給に当たった。東南の横街の四隅には楼が向かい合って建ち、下には市肆が連なった。東に長霸県、西に咸寧県がある。祖山があり、山には太祖天皇帝廟があって御靴が今も残る。また龍門・黎谷・液山・液泉・白馬・独石・天梯の山々があり、水では南沙河・西液泉がある。太祖の陵は山を鑿って殿とし明殿といい、殿の南の嶺には膳堂があって時祭に備え、門は黒龍という。東の偏には聖蹤殿があり、太祖の遊猟の事跡を述べた碑が立てられている。殿の東には楼があり、太祖創業の功を紀した碑が立てられている。これらはみな州の西五里にある。天顕年間、太宗がこれを建て、弘義宮に隷した。統県2、城1。
- 長霸県:もと龍州長平県の民をここに遷した。戸2000。
- 咸寧県:もと長寧県。遼陽を破りその民を遷して置いた。戸1000。
- 越王城:太祖の伯父・裕悦王実嚕が西のかた党項・吐渾を伐ってその民を俘とし放牧させた地で、城を建てた。州の東南二十里にある。戸1000。
懐州
- 懐州は奉陵軍上節度で、もと唐の帰誠州である。太宗の行帳がここで牧をした。天賛年間、太祖に従って扶余を破り龍泉府城下でその人々を俘とし、寨を築いて住まわせた。会同年間には燕・薊で掠めた俘虜もここに置いた。太宗が崩じて西山に葬られたのを懐陵という。大同元年、世宗が州を置いてこれを奉じた。
- この年、騎馬十余人が祖州の西五十里の大山で狩りをしていたところ、太宗が白馬に乗って白狐を独り追い、一発で射止めたと見えたが、忽然と姿が消え、ただ狐と矢だけが得られた。この日、太宗は灤城で崩じた。後にその地に廟を建て、また州の鳳凰門には太宗が馬を馳せて狐を射抜く像を描いた。穆宗が弑された際も懐陵の側に葬られ、鳳凰殿を建ててこれを奉じた。清涼殿があり行幸・避暑の所であった。いずれも州の西二十里にある。永興宮に隷し、統県は2。
- 扶餘県:もと龍泉府。太宗が渤海扶餘県の降戸をここに遷した。世宗が県を置いた。戸1500。
- 顕理県:もと顕理府の人。太祖が渤海を伐ってその王大諲譔を俘としてこの地に民を遷した。世宗が県を置いた。戸1000。
慶州
- 慶州は玄寧軍上節度で、もと太保山・黒河の地であり、巌谷は険峻であった。穆宗が城を建てて黒河州と号し、毎年ここに来て虎を射・鷹を放ち、軍国の事の多くを大臣に委ねたが、後にここで弑された。地が寒さに苦しむため、統和八年に州は廃された。聖宗は秋の狩猟でその奇秀さを愛し、慶州と号して建てた。
- 遼国の五代祖・巴図は容貌が並外れ武略に優れ、力は百人に匹敵し、衆に王として推された。巴図山で生まれたためこの名がつき、没して山下に葬られた。州から二百里にある。慶雲山はもと黒嶺という。聖宗が駐蹕して愛でて「わたしが万歳の後はここに葬られるべきだ」と言った。興宗は遺命に遵って永慶陵を建て、望仙殿・御容殿を設けて番漢の守陵の民三千戸を置き、いずれも大内都総管司に隷した。州の西二十里にある。黒山・赤山・太保山・老翁嶺・饅頭山・興国湖・錫沙濼・黒河がある。景福元年に再び置かれ、興聖宮に隷し直された。統県は2。
- 玄徳県:もと黒山黒河の地。景福元年、落帳の人戸を括してその便に従って居らせた。戸6000。
- 孝安県。
- 富義県:もと義州。太宗が渤海義州の民をここに遷した。重煕元年、義豊県に降格し後に改名して弘義宮に隷した。
泰州
- 泰州は徳昌軍節度で、もと契丹二十部族の放牧の地である。黒鼠族がたびたび通化州を侵し民が禦ぎきれなかったため、東南六百里を移して城を建てて居った。本族に近い黒鼠は穴居して肌が黒く口先が鋭く鼠に似るためこの名がついた。延慶宮に隷し、軍事は東北統軍司に属した。統県は2。
- 楽康県:倚郭。
- 興国県:もと山前の民で罪により配遞されここに至った。興宗が県を置いた。戸700。
長春州
- 長春州は韶陽軍下節度で、もと鴨子河の春の狩猟地である。興宗の重煕八年に置かれ、延慶宮に隷し軍事は東北統軍司に属した。統県は1。
- 長春県:もと混同江の地。燕・薊の犯罪者がここに流配された。戸2000。
烏州
- 烏州は静安軍刺史で、もと烏丸の地であり東胡の一種である。遼の北大王布拉がこの地を牧地として占め城を建てたが、後に官が収めて興聖宮に隷した。遼河・夜河・烏丸川・烏丸山がある。統県は1。
- 愛民県:布拉王が従軍して南征した際の俘の漢民をここに置いた。戸1000。
永州
- 永州は永昌軍観察で、承天皇太后の建てた所である。太祖はここに南楼を置いた。乾亨三年、皇子罕巴の墓の側に州を置いた。東は潢河、南は土河の二水が合流するのでこれにちなんで永州と号した。冬月には牙帳が多くここに駐まり、これを冬巴納という。
- 木葉山があり、山上には契丹の始祖の廟が建てられ、竒善汗は南廟に、哈屯(妃)は北廟に祀られ、二聖および八子の神像が絵塑されている。伝えるところによれば、神人が白馬に乗って馬盂山から土河を浮かんで東に来たり、天女が青牛の車を駕して平地松林から潢河を下って来て、木葉山で二水が合流するところで出会い夫婦となって八子を生んだという。その子孫は次第に盛んになって八部に分かれた。行軍や春秋の祭祀のたびに必ず白馬・青牛を用いるのは、その本を忘れないことを示すという。
- 興王寺には白衣観音像がある。太祖は石晋を援けて中国の主とした際、潞州から幽州に戻る途中で大悲閣に幸してこの像を指し、「わたしは夢に神人が石郎を中国の帝に送るよう命じるのを見たが、これがすなわちそれだ」と言った。これにより木葉山に移して廟を建て、春秋にこれを告げ祭って家神と尊び、軍を興すときは必ずこれに告げ、符を合わせて諸部に矢を伝えた。また高淀・山柳林淀(馬淀ともいう)がある。彰愍宮に隷し、統県は3。
- 長寧県:もと顕徳府の県名。太祖が渤海を平定してその民をここに遷した。戸4500。
- 義豊県:もと鉄利府義州。遼兵がこれを破ってその民を南楼の西北に遷し、なお義州と名づけた。重煕元年に州を廃して今の県に改め、州の西北百里にある。またかつて富義県と改めて慶州に属したこともあり、始末は詳らかにできないため今は両方を残す。戸1500。
- 慈仁県:太宗が皇子済色古勒の没した地に慈州を置いた(墳の西)。重煕元年に州を廃して今の県に改めた。戸400。
儀坤州
- 儀坤州は啓聖軍節度で、もと契丹右大部の地である。応天皇后がこの州を建てた。回鶻の諾蘇がここに居り、四世の孫の庸安穆嚕が応天皇后舒嚕氏を生んで太祖に嫁した。太祖が四方を開拓し渤海を平定するにあたり、皇后の力によるところが大きかった。俘掠のうち伎芸を有する者は多く帳下に帰属させ、これを舒新と呼んだ。生まれた地に州を建て、州には啓聖院を建て、中に儀寧殿を置いて太祖天皇帝・応天地皇后の銀像を安置した。長寧宮に隷し、統県は1。
- 広義県:もと回鶻部の牧地。応天皇后が四方征伐の俘をここに居らせ、州県を建てた。統和八年、諸宮提轄司の戸をもって来遠県を置いたが、十三年に併合された。戸2500。
龍化州
- 龍化州は興国軍下節度で、もと漢の北安平県の地である。契丹の始祖竒善汗がここに居って龍庭と称した。太祖は東楼を建てた。唐の天復二年、太祖は徳哷勒部の額爾奇木として代北を破り、その民を遷して城を建てて居らせた。翌年、女直を伐って数百戸を俘としてここに実らせた。天祐元年、東城を増修してその制度は頗る壮麗であった。十三年、太祖は城の東の金鈴岡で尊号を受け「大聖大明天皇帝」と称し、神冊と建元した。天顕元年、東楼で崩じた。太宗の代に節度に昇格し、彰愍宮に隷し、軍事は北路女直兵馬司に属した。刺史州が一つあるが未詳。統県は1。
- 龍化県:太祖が東のかた女直を伐り南のかた燕・薊を掠めた際の俘をもって城を建て邑を置いた。戸1000。
降聖州
- 降聖州は開国軍下刺史で、もと大部落の東楼の地である。太祖は春に行帳を多くここに駐めた。応天皇后が夢に、金冠素服で兵仗を執った神人を見た。容貌は麗しく、十二の異獣を従え、その中の黒兎が后の懐に躍り入ったことで身ごもり、やがて太宗を生んだ。その時、黒雲が帳を覆い、火光が室を照らし、雷のような音がしたので、諸部はこれを異とした。穆宗が州を建て、四方各三十里は樵採・放牧を禁じた。初めは延昌宮に属したが、後に彰愍宮に隷した。統県は1。
- 永安県:もと龍原府慶州県名。太祖が渤海を平定して懐州の永安を破りその人を遷して寨を置き、県を建てた。戸800。
饒州
- 饒州は匡義軍中節度で、もと唐の饒楽府の地である。貞観年間に松漠府が置かれた。太祖が旧塁を修復した。潢河・長水濼・穆丹河・青山・大福山・松山がある。延慶宮に隷し、統県は3。
- 長楽県:もと遼城県名。太祖が渤海を伐ってその民をここに遷し県を建てた。戸4000(うち1000戸は鉄を納める)。
- 臨河県:もと永豊県の人。太宗が兵を分けて渤海を伐った際、潢水の曲に遷した。戸1000。
- 安民県:太宗が渤海諸邑からの俘を雑置した。戸1000。
頭下軍州
- 頭下軍州はいずれも諸王・外戚・大臣が、あるいは諸部が従軍して俘掠した者、あるいは生口として得た者を団結させて州県を建て居らせたものである。横帳の諸王・国舅・公主だけが州城を創立することを許され、それ以外の者は城郭を建てることができなかった。朝廷は州県の名を賜り、節度使は朝廷が任命したが、刺史以下はすべて本主の部曲が充てられた。官位が九品以下の役人、および井邑・商賈の家からの徴税はそれぞれ頭下に帰したが、酒税だけは上京の鹽鉄司に納められた。
- 徽州(宣徳軍節度):景宗の女・秦晋大長公主が建てた。媵臣の一万戸が宜州の北二百里にあり、これにちなんで州城を建てた。北は上京まで七百里。節度使以下はすべて公主の府署が任じた。戸1万。
- 成州(長慶軍節度):聖宗の女・晋国長公主に賜った媵臣の戸をもって置いた。宜州の北百六十里にあり、州城を建てた。北は上京まで七百四十里。戸4000。
- 懿州(広順軍節度):聖宗の女・燕国長公主に賜った媵臣の戸をもって置いた。顕州の東北三百里にあり、州城を建てた。西北は上京まで八百里。戸4000。
- 渭州(高陽軍節度):駙馬都尉蕭昌裔が建てた。秦国王隆慶の女・韓国長公主に賜られた媵臣をもって州城を建てた。顕州の東北二百五十里。遼の制度では皇子の嫡出の女は帝の女と同格とされた。戸1000。
- 壕州:国舅の宰相が南征して掠めた漢民を、遼東西安平県の故地に居らせた。顕州の東北二百二十里、西北は上京まで七百二十里。戸6000。
- 原州:もと遼東北安平県の地。顕州の東北三百里。国舅の金徳が漢民を俘掠して城を建てた。西北は上京まで八百里。戸500。
- 福州:国舅の蕭寧が建てた。南征して掠めた漢民を北安平県の故地に居らせた。原州の北二十里、西北は上京まで七百八十里。戸300。
- 横州:国舅の蕭克忠が建てた。部下の牧人を漢の旧遼陽県の地に居らせ、州城を置いた。遼州の西北九十里、西北は上京まで七百二十里。横山がある。戸200。
- 鳳州:果囉国の故地で渤海の安寧郡の境。南王府五帳の分地。韓州の北二百里、西北は上京まで九百里。戸4000。
- 遂州:もと高州の地。南王府五帳がここで放牧した。檀州の西二百里、西北は上京まで千里。戸500。
- 豊州:もと遼澤大部落・約尼氏僧隠の牧地。北は上京まで三百五十里。戸500。
- 順州:もと遼隊県の地。横帳南王府が燕・薊を掠めた際の順州の民を城に建てて居らせた。顕州の東北百二十里、西北は上京まで九百里。戸1000。
- 閭州:羅古王の牧地。医巫閭山に近く、遼州の西百三十里、西北は上京まで九百五十里。戸1000。
- 松山州:もと遼澤大部落・横帳布庫王の牧地。松山がある。北は上京まで百七十里。戸500。
- 豫州:横帳陳王の牧地。南は上京まで三百里。戸500。
- 寧州:もと達呼哩氏勒特山の地。横帳固寧王の牧地。豫州の東八十里、西南は上京まで三百五十里。戸300。
辺防城
- 遼国の西北の境の防辺城は、屯戍のために立てられ、地形の要害を頼みとして丁賦には拠らなかった。以下に列挙する。
- 静州(観察):もと泰州の金山であったが天慶六年に昇格した。
- 鎮州(建安軍節度):もと古の哈屯城である。統和二十二年、皇太妃が奏して置き、諸部族から二万余騎を選んで屯軍に充て、専ら室韋・伊済等の国を防いだ。征討があっても抽移してはならないとされた。渤海・女直・漢人の配流の家七百余戸を鎮・防の二州に分けて居らせた。東南は上京まで三千余里。
- 河董城:もと回鶻の哈屯城で、語が訛って河董城となった。久しく廃れていたが遼人がこれを修復して辺患に備えた。高州界の女直がしばしば盗みを働き旅人を劫掠したため、その族をここに遷した。東南は上京まで千七百里。
- 静辺城:もと契丹二十部族の水草の地で、北は伊済に隣り毎度侵入して盗みを働くため、城を建て兵千余騎を置いてこれを防いだ。東南は上京まで千五百里。
- 皮被河城:地が北辺を控え、兵五百をここに置いて皮被河を防いだ。皮被河は回紇の北に出て東南は伊済を経て臚朐河に入り、河董城の北に沿って東に流れ沱漉河と合して海に入る。南は上京まで千五百里。
- 招州(綏遠軍刺史):開泰三年、女直の戸をもって置き、西北路招討司に隷した。
- 塔哩珠城:太康九年に置かれ、臚朐河にある。