清寧八年(1062年)
- 春正月癸丑、鴨子河に行幸。二月、納克濼に駐蹕。三月戊申朔、楚王蕭格が致仕し鄭国王に進封。夏五月、武都温特哩衮図図爾噶らが歳ごとの馬駝の貢を乞い許可。六月、図古勒に駐蹕。辛丑、右伊勒希巴奚瑪魯を奚六部大王とした。この月、清涼殿にて放進士、王鼎ら九十三人。秋七月甲子、愛實拉で熊を射た。冬十月甲戌朔、都爾嘉に駐蹕。十二月庚辰、知北院樞密使事蕭特古斯を北院樞密使とした。癸未、西京に幸した。戊子、皇太后の再生礼により西京の囚を曲赦した。
清寧九年(1063年)
- 春正月、鴛鴦濼に幸した。辛未、民が銅を売ることを禁じた。三月辛未、宋主禎が崩じ、姪の曙が子として嗣位した。夏五月丙午、隋王仁先を南院樞密使とし許王に徙封、赫哷蘇で避暑。秋七月丙辰、太子山に行幸。
- 戌午(戊午)、皇太叔重元とその子楚国王尼嚕古および陳国王辰祿・同知北院樞密使事蕭呼都克・衛王特布・林牙聶羅・布爾古統軍使蕭逹勒逹・駙馬都尉参と弟珠展・図古勒旗鼓伊喇詳衮耶律果玖・文班太保希卜蘇・内蔵提点烏爾古・護衛左太保特卜庫・諳逹副官使罓嘉努・寳神努らあわせて四百人が弩手軍を誘脅して行宮を犯した。このとき南院樞密使許王仁先・知北樞密院事趙王耶律伊遜・南府宰相蕭唐古・北院宣徽使蕭罕嘉努・北院樞密副使蕭惟信・敦睦宮使耶律良らが宿衛の士卒数千人を率いてこれを禦いだ。尼嚕古が馬を躍らせて突出し戦おうとしたところ、近侍詳衮渤海阿蘇の護衛蘇に射殺された。己未、逆党の家を族し、庚申、重元は大漠に逃げ入り自殺した。
- 辛酉、諸道に詔諭。壬戌、仁先を北院樞密使とし宋王に進封、尚父を加えた。耶律伊遜を南院樞密使とし、罕嘉努を殿前都㸃檢とし荊王に封じ、蕭惟信・耶律馮嘉努にともに太子太傅を加えた。宿衛官蕭伊遜・回鶻海蘭・紐斡哩・耶律托卜嘉・阿蘇宮分人濟嚕克・錫黙伊遜・珠嚕にはともに上将軍を加え、諸護衛および士卒・庖夫・弩手・傘子ら三百余人にも各々官を授けた。耶律良は重元の変を密告した功により、その横帳の額爾竒木房を漢人行宮都部署に籍した。癸亥、特布は重元らに脅されたと訴えたが、詔により爵を削られ鎮州に流された。戊辰、黒白の羊で天を祭った。
- 八月庚午朔、使者を遣わし南京の吏民を安撫させた。癸酉、永興宮使耶律托卜嘉が乱を鎮定した功により同知㸃檢司事とした。冬十月戊辰朔、興王寺に幸した。庚午、六部院太保耶律和卓を知南院大王事とした。この月、藕絲淀に駐蹕。十一月辛丑、南院宣徽使蕭玖格を北府宰相とした。己未、故富春郡王耶律義先を許王に追封した。この年、皇子濬を梁王に封じた。
清寧十年(1064年)
- 春正月己亥、北に行幸。二月、南京の民が水を決して粳稲を種えることを禁じた。秋七月壬申、諸路の囚を決すことを詔した。辛巳、僧尼が私に行在に詣で禍福を述べて財物を取ることを禁じた。九月壬寅、懐州に幸し太宗・穆宗の廟に謁した。冬十月壬辰朔、中京に駐蹕。戊午、民が私に文字を刊印することを禁じた。十一月甲子、吏民の衣服の制を定めた。辛未、六斎日の屠殺を禁じた。丁丑、乾文閣に欠けている経籍を求め儒臣に校讐させることを詔した。庚辰、彰国軍節度使韓色實を特哩衮とし、南京が私に御用の綵段を製造し私に鉄を売り非時に飲酒することを禁じ、南京三司に毎年春秋官銭で将士を饗させることを命じた。十二月癸巳、北院大王蕭烏爾古納を契丹行宮都部署とした。この年、南京・西京は大熟であった。
咸雍元年(1065年)
- 春正月辛酉朔、文武百僚が尊号を上げ聖文神武全功大略廣智聰仁睿孝天祐皇帝とし、改元して咸雍とし大赦。梁王濬を皇太子に冊立し内外の官に等差をもって級を賜った。甲子、魚兒濼に行幸。庚寅、正旦・重午・冬至には別に東宮に表を上げ賀することを詔した。三月丁亥、知興中府事楊績を知樞密院事とした。夏四月辛卯、知樞密院事張嗣復が病により知興中府事に改められた。庚子、図古勒で避暑。五月辛巳、夏国が使者を遣わし来貢。秋七月丙子、皇太后が熊を射て得たので百官に賞賚を等差をつけた。八月丙申、客星が天廟を犯し、諸路に盗賊に備え火の禁を厳しくすることを詔した。九月乙亥、藕絲淀に駐蹕。丁丑、左伊勒希巴繅古を孟父詳衮とした。冬十月丁亥朔、医巫閭山に幸した。己亥、皇太后が虎を射て得たので群臣を大宴し各々詩を賦させた。十一月壬戌、斗のような星が逆行し隠隠と音があった。十二月甲午、遼王仁先を南京留守とし晋王に徙封した。辛亥、南京留守蕭惟信を左伊勒希巴とした。壬子、熒惑が月と並行し朝から午まで続いた。
咸雍二年(1066年)
- 春正月丁巳、鴨子河に行幸。宋の賀正使王厳が卒し礼をもって送り還した。癸未、山楡淀に行幸。二月甲午、武定軍節度使姚景行を召し治道を問い南院樞密使を拝した。三月辛巳、南北路詳衮耶律韓福努を北院大王とした。壬午、彗星が西方に現れた。夏四月、霖雨。五月乙亥、図古勒に駐蹕。辛巳、戸部使劉詵を樞密副使とした。六月丙戌、回鶻が来貢。甲辰、準布が来貢。秋七月癸丑朔、西北路招討使蕭珠展を北府宰相に、左伊勒希巴蕭惟信を南院樞密使に、同知南院樞密使事耶律伯を特哩衮とし、南院樞密使事姚景行が致仕。庚申、囚人を録した。辛酉、景行が復職。丁亥、藕絲淀に行幸。旱により山後の貧民を賑済した。九月壬子朔、日食があり、參知政事韓孚を樞密副使とした。冬十二月壬午、知樞密院事楊績を南院樞密使に、樞密副使劉詵を參知政事とした。戊子、僧守志に守司徒を加えた。丁酉、西京留守和卓を南院大王とした。辛丑、蕭珠展を武定軍節度使とした。この年、永安殿にて放進士、張臻ら百一人。
咸雍三年(1067年)
- 春正月辛亥、鴨子河に行幸。甲子、安流殿にて釣魚。三月癸亥、宋主曙が崩じ子の頊が嗣位、使者を遣わし告げてきたので右護衛太保蕭托卜嘉・翰林学士陳覚らを遣わし弔祭した。閏月丁亥、扈駕の軍営が火事に遭い銭粟・馬を等差をもって賜った。辛卯、春州北淀に駐蹕。乙巳、蕭烏爾古納を北府宰相とした。夏五月壬辰、納克濼に駐蹕。壬寅、随駕の諸官・工人に馬を賜った。六月戊申、有司が新城県の民楊従が謀反し偽って官吏を署したと奏したところ、上は「小人の無知、児戯のようなものだ」と言い、その首悪だけを流し余は釈放させた。庚戌、宋が使者を遣わし先帝の遺物を饋った。辛未、宋が即位により陳襄を遣わし来報したので、知黄龍府事蕭特古斯・中書舎人馬絃を遣わし賀した。壬戌、南府宰相韓王蕭唐古が致仕。壬申、廣徳軍節度使耶律瑞努を南府宰相とし、度支使趙徽を參知政事とした。秋七月辛丑、熒惑が昼に見え、凡そ三十五日に及んだ。九月戊戌、諸路の囚に糧を給することを詔した。癸卯、南京に幸した。冬十一月壬辰、夏国が使者を遣わし回鶻僧の金仏梵覚経を進めた。十二月丁未、參知政事劉詵を樞密副使に、東北路詳衮果巴を南院大王に、樞密直学士張孝傑を參知政事とした。己酉、張孝傑を同知樞密院事とした。丁巳、再生礼を行い死罪以下を赦した。この月、夏国王李諒祚が薨じた。この年、南京は旱蝗であった。
咸雍四年(1068年)
- 春正月甲戌朔、日食があった。丙子、鴛鴦濼に行幸。辛巳、易州兵馬使を安撫使に改めた。丁亥、炭山で狩猟。辛卯、使者を遣わし西京の飢民を賑済した。二月甲辰朔、元帥府に募軍を詔した。壬子、夏国王李諒祚の子秉常が使者を遣わし哀を告げた。癸丑、御製華厳経賛を頒行した。丁亥、北に行幸。三月丙子、使者を遣わし夏国を弔祭した。甲申、応州の饑民を賑済した。乙酉、南京は軍行地を除きすべて稲を植えることを許すことを詔した。庚寅、朔州の饑民を賑済した。乙未、夏国李秉常が使者を遣わしその父諒祚の遺物を献じた。夏四月戊午、阿爾斯蘭回鶻が来貢。五月丙戌、図古勒に駐蹕。六月壬子、西北路に穀の雨が降り方三十里に及んだ。丙寅、北院林牙耶律卓克算を北院大王に、右伊勒希巴蕭素颯を中京留守とした。秋七月壬申、烏爾古徳哷勒都統軍司を置いた。丙子、黒嶺で狩猟。南京は霖雨により地震があった。九月己亥、藕絲淀に駐蹕。冬十月辛亥、南京の徒罪以下の囚を曲赦した。永清・武清・安次・固安・新城・歸義・容城の諸県の水害により租税を一年復した。戊辰、李秉常を夏国王に冊立した。十二月辛亥、夏国が使者を遣わし来貢。
咸雍五年(1069年)
- 春正月、準布が叛いたので晋王仁先を西北路招討使とし禁軍を率いて討伐させた。夏六月己亥、図古勒に駐蹕。丙午、吐蕃が使者を遣わし来貢。壬戌、南院樞密使蕭惟信を知北院樞密使事とした。秋七月乙丑朔、日食があった。戊辰、夏国が使者を遣わし冊封の謝を伝えた。癸未、皇族が勢いに乗じて細民を侵すことを禁じることを詔した。八月、慶陵に謁した。九月戊辰、仁先が使者を遣わし準布討伐の捷を奏した。冬十月己亥、藕絲淀に駐蹕。十一月丁卯、四方館副使は契丹人のみを充てることを詔した。丁丑、五国博和哩部が叛いたので蕭素颯に討伐させた。閏月戊申、夏国王李秉常が使者を遣わし印綬を賜ることを乞うた。己未、僧志福に守司徒を加えた。十二月甲子、皇太子の再生礼を行い諸路の徒罪以下を一等減じた。乙丑、百官に国政を廷議させることを詔した。甲戌、五国が来降しあわせて方物を献じた。
咸雍六年(1070年)
- 春正月甲午、千鵝濼に行幸。二月丙寅、準布が来朝し方物を献じた。夏四月癸未、西北路招討司が降した準布の酋長を行在に至らせた。五月甲辰、図古勒で避暑。甲寅、賢良科を設け、この科に応ずる者は先にその業を十万言進めることを詔した。六月辛巳、準布が来朝。乙酉、特哩衮耶律伯を中京留守とした。この月、永安殿にて放進士、趙廷睦ら百三十八人。秋七月辛亥、和羅努克特で狩猟。八月丙子、耶律伯が薨じ遼西郡王を追封された。九月庚戌、藕絲淀に幸した。甲寅、馬希白の詩才の敏妙さに十人の吏書が追いつけず召して試させた。冬十月丁亥、五国の部長が来朝。壬申、西北路招討司が準布の酋長を捕らえて献じた。十一月乙巳、鬻生熟鉄の回鶻・準布等の界での売買を禁じた。十二月戊午、圓釋・法鈞の二僧にともに守司空を加えた。己未、坤寧節により徒罪以下を赦した。辛酉、漢人の捕猟を禁じた。
咸雍七年(1071年)
- 春正月戊子、鴨子河に行幸。二月乙丑、女直が馬を進めた。丙寅、南院樞密使姚景行を知興中府事とした。三月己酉、五国討伐の功により知黄龍府事蒲延を懐化軍節度使に、髙元紀を易州観察使に、髙正をともに千牛衛上将軍に、五国節度使蕭托斯を、寧江州防禦使大栄をともに静江軍節度使とした。黒水に幸した。夏四月癸酉、納克濼に行幸。乙亥、布帛が短狭で尺度に中らぬものを禁じた。六月己邜、吐蕃が来貢。癸未、南院大王果巴が致仕。秋七月甲申朔、東北路詳衮哈爾吉を南院大王に、西南面招討使實徳努を奚六部大王とした。己丑、使者を遣わし五京の囚を按問した。庚子、藕絲淀に行幸。八月辛巳、招仙浮図に仏骨を置き狩猟を罷め屠殺を禁じた。冬十月己卯、医巫閭山に行幸。壬戌、南府宰相耶律瑞努を南京統軍使とした。戊辰、乾陵に謁した。庚辰、百官に国事を廷議させることを詔した。十一月戊子、南京の流民の租税を免じた。己丑、饒州の饑民を賑済した。丙午、高麗が使者を遣わし来貢。十二月壬子、契丹行宮都部署耶律呼図克に知北院樞密使事を命じ、知北院樞密使事蕭惟信を南府宰相兼契丹行宮都部署とした。丁巳、漢人行宮都部署李仲禧・北院宣徽使劉霖・樞密副使王観・都承旨楊興功にそれぞれ国姓を賜った。戊寅、回鶻が来貢。この年、春州の穀物は一斗六銭であった。