遼史卷十九 本紀十九 興宗二

重熙十年(1041年)

  • 春正月辛亥朔、宋の梁適・張從一・富弼・趙日定が来賀。甲子、また呉育・馮戴を遣わし永夀節を賀した。二月庚辰朔、博囉滿逹勒に没収されたハスハン戸を復業させることを詔した。甲申、北樞密院が、南北二王府および諸部節度・侍衛祗侯郎君はいずれも族帳より出て民とともに辺に戍することを免れており、祗候の役務も部曲に代行させることを願い出、これを許した。夏四月、鴨淥江の浮梁の修築と漢兵の屯戍の役を罷めることを詔した。東京留守蕭薩巴の言により東京の擊鞠の禁を緩めた。六月戊寅、蕭寧・耶律坦・崔禹稱・馬世良・耶律仁先・劉六符を賀宋生辰使副に、耶律庶成・趙成・耶律烈・張旦を来年の賀宋正旦使副とした。
  • 秋七月壬戌、職官が私に官物を取れば正盗として論じること、先朝で既に断じた事について告げる者は罪すること、諸帳郎君らが禁地で鹿を射た場合三百を決し徴償しないこと、小将軍は二百決以下とすること、百姓の犯した場合は郎君に同じく論じることを詔した。八月丙戌、医者鄧延貞が詳衮蕭留寧の病を治療したことにより、その父母に贈官して奨した。九月辛亥、皇太后に朝じた。国舅留寧が薨じた。庚申、皇太后が熊を射て得たので上が酒を進め寿を祝った。癸亥、上が馬盂山で狩猟したところ草木が繁茂し猟者が誤って人を射傷することを恐れ、耶律徳古に各自矢に姓名を記させた。丙寅、夏国が宋の捕虜を献じた。石硬砦太保郭三が虎を避けて射なかったため免官とした。冬十月丙戌、東京留守蕭孝忠に、廉幹清彊な官吏を選び名を具申するよう詔した。庚寅、女直太師塔雅克をハスハン都大王とした。辛卯、皇子庫魯噶里が生まれ、北宰相駙馬賽音巴寧が上をその邸に迎え宴を催し、上は衛士に漢人と角觝させて楽しんだ。壬辰、皇太后殿で飲宴し、皇子誕生を祝い赦を行い、夕には公主・駙馬および内族大臣を寝殿に招いて劇飲した。甲午、中京に幸した。庚子、駙馬都尉蕭呼哩を国舅詳衮とした。十一月丙辰、回鶻が使者を遣わし来貢。十二月丙子朔、宋の劉沆・王整が應聖節を賀しに来た。乙未、塔卓卜の酋長を置き和塔拉を平章事とした。上は宋が関河を設け壕塹を治めるのは辺患となるのを恐れ、南北樞密の呉国王蕭孝穆・趙国王蕭固寧と謀り宋の旧割地の関南十県を取ろうとし、蕭英・劉六符を宋に使者として遣わした。庚寅、宋の張沔・侯宗亮・薛申・侍其濬・施昌言・潘永照が永夀節および来年正旦を賀しに来た。宣政殿学士楊佶を吏部尚書に任じ順度軍節度使事を判じさせた。丁酉、宋討伐を議し諸道に詔諭した。

重熙十一年(1042年)

  • 春正月戊申、皇太后を内殿に奉迎。庚戌、南院宣徽使蕭特黙・翰林学士劉六符を宋に遣わし晉陽および瓦橋以南十県の地を求め、あわせて夏討伐の興師と沿辺の水澤を疏濬し兵戍を増した理由を問わせた。二月壬寅、鴛鴦濼に行幸。四月甲戌朔、南征の賞罰令を頒布した。六月乙亥、宋の富弼・張荗實が奉書し来聘、これに書をもって答えた。壬午、含涼殿にて放進士、王実ら六十四人。氈銀を宋に売ることを禁じた。秋七月壬寅朔、盗んで官馬を易えた者の死刑を減じることを詔した。外路の官で勤瘁正直な者は考満で代えず、事を治めない者は即座に易えることとした。
  • 八月丙申、宋がまた富弼・張茂實を遣わし奉書し来聘、嵗幣の銀絹の増額を求めたので書をもって答えた。九月壬寅、北院樞密副使耶律仁先・漢人行宮副部署劉六符を宋に遣わし約和させた。このとき富弼が上(帝)に、遼と宋が和して歳幣を得れば利は国家にあり臣下には及ばないが、宋と交戦すれば利は臣下にあり害は国家にあると大意を述べ、上はその言に感じ和好が定まった。閏月癸未、耶律仁先が人を遣わし宋に嵗幣を銀絹十万両匹増すこと、文書に貢と称することを報じ、白溝に至って文書を送ると帝は喜び羣臣を昭慶殿に宴し、この日三父族の貧しい者を振恤した。辛卯、仁先・劉六符が還り宋国の誓書を進めた。冬十一月丁亥、羣臣が尊号を上げ聰文聖武英略神功睿哲仁孝皇帝とし、皇后蕭氏を冊立して貞懿宣慈崇聖皇后とし、大赦。梁王洪基を燕国王に進封した。十二月癸卯、皇太后に朝じた。甲辰、皇太弟重元の子尼嚕古を安定郡王に封じた。己酉、宣献皇后の忌日により上と皇太后は素服して延壽・憫忠・三学三寺で僧に飯した。辛亥、伐宋に備えた諸部の租税を一年蠲免することを詔した。壬子、吐渾・党項が馬を夏国に多く売っているとして辺防を謹むことを詔した。己未、宋の賀正旦および永夀節使が邸にいたので帝は微服して観に行った。丁卯、喪葬に牛馬を殺すことおよび珍宝を蔵することを禁じた。

重熙十二年(1043年)

  • 春正月辛卯、同知析津府事耶律迪里・樞密院都承旨王惟吉を遣わし夏国に宋との和を諭させた。壬申、呉国王蕭孝穆を南院樞密使に、北府宰相蕭孝忠を北院樞密使とし楚王に封じ、韓国王蕭惠を北府宰相同知元帥府事に、罕巴を南院大王に、東京留守北院樞密副使耶律仁先を同知東京留守事に、北面林牙蕭格を北院樞密副使とした。甲戌、武清寨葦淀に行幸。二月壬寅、関南漢民の弓矢の所持を禁じた。己酉、夏国が尊号を加えたことにより使者を遣わし賀した。甲寅、耶律迪里らが夏国への使いより還り、元昊が兵を罷め宋に使いを遣わし報じたと奏した。三月辛卯、南京に行幸した。壬辰、高麗国が尊号を加えたことにより使者を遣わし賀した。夏四月己亥、輝發部に詳衮都監を置いた。庚子、夏国が使者を遣わし馬駝を進めた。五月辛卯、斡魯・博囉滿逹勒の二使が来貢が期限に遅れたが、宥してこれを還した。乙未、礼制を復定することを詔した。この月、山西に幸した。六月丙午、世選の宰相・節度使の族属および身が節度使となった家は銀器を用いて葬ることを許すが牲を殺して祭ることは禁ずることを詔した。庚戌、漢人の宮分戸が絶えその産が親族に継がれることを詔した。辛亥、準布大王通特古斯の弟太尉薩哈勒が来朝。丙辰、回鶻が使者を遣わし来貢。甲子、南院樞密使呉国王蕭孝穆を北院樞密使とし斉国王に徙封。
  • 秋七月丙寅朔、北院樞密使蕭孝忠が薨じ、囚人を特に釈放した。庚寅、夏国が使者を遣わし表を上げ宋討伐を請うたが従わなかった。八月丙申、慶陵に謁した。辛丑、燕国王洪基に尚書令を加え北南院樞密使事を知らせ燕趙国王に封じた。戊午、前西北路招討使蕭塔喇噶を右伊勒希巴とした。庚申、裕悦耶律鴻觀が薨じた。甲子、準布が来貢。九月壬申、皇太后に朝じ望仙殿に謁した。壬午、懐陵に謁した。冬十月丁酉、中會川に駐蹕。己亥、北院樞密使蕭孝穆が薨じ、大丞相晉国王を追贈した。庚子、諸路の重囚を上げ官を遣わし詳讞することを詔した。辛亥、參知政事韓紹芳を廣徳軍節度使に、三司使劉六符を長寧軍節度使とした。壬子、夏が党項を侵したので延昌宮使高嘉努を遣わし責めた。甲子、北府宰相蕭惠を北院樞密使に、豳王蘇克を特哩衮に、特哩衮逹嚕噶を漆水郡王に封じ、西北路招討使樞密副使蕭阿拉を同知北院宣徽事とし、飛龍廐の馬を出して羣臣に分賜した。十一月丁丑、楚王蕭孝忠を追封し楚国王とした。丁亥、上京の凶作により民の租税を復した。癸巳、皇太后に朝じた。十二月戊申、政事省を中書省に改めた。

重熙十三年(1044年)

  • 春正月甲子朔、皇太后に朝じた。戊辰、混同江に行幸。辛未、烏爾衮岡で狩猟。二月庚戌、魚兒濼に行幸。丙辰、參知政事杜防を南府宰相とした。三月丁亥、高麗が使者を遣わし来貢。宣政殿学士楊佶を參知政事とした。この月、契丹警巡院を置いた。夏四月己酉、東京留守耶律浩善を知黄龍府事とし、耶律烏魯斯に博囉滿逹勒を攻めさせた。甲寅、南院大王耶律果實が党項等部が叛いて夏国に附いたと奏した。丙辰、西南面招討都監羅漢努・詳衮鄂羅木らが、山西郡族節度使庫哩が五部を率いて西夏に叛入し南北府の兵の来援を乞い、威塞州の戸を実たすと奏し、詔して富める者は行かせ残りは天徳軍に屯田させた。五月壬戌朔、羅漢努が発した部兵が党項との戦いで不利、招討使蕭普逹・四捷軍詳衮張佛奴が陣中で戦死し、李元昊が叛党を援けたと奏した。戊辰、諸道の兵を西南辺に集め元昊を討つことを詔した。六月甲午、準布の酋長烏巴がその子を遣わし元昊の遣わした援兵を捕らえた使者阿雅噶を送り兵を助けることを乞い、これに従った。永安山に駐蹕し、夏討伐にあたり延昌宮使耶律高嘉努を遣わし宋に告げた。丙申、前南院大王耶律古雲・翰林都林牙耶律庶成らに国朝の上世以来の事蹟を編集することを詔した。丙午、高麗が使者を遣わし来貢。丁未、囚人を録した。
  • 秋七月辛酉、香河県の民李宜兒が左道により衆を惑わしたので誅した。庚午、再生礼を行った。庚辰、夏国が使者を遣わし来朝。八月乙未、夏使の返答が誠実でなかったので羈留した。丁巳、夏国がまた使者を遣わし事宜を問うたがまた実をもって答えず笞刑に処した。九月戊辰、宋が夏国への親征により余靖を遣わし贐礼を致した。壬申、九十九泉に大軍を集め、皇太弟重元・北院樞密使韓国王蕭惠に先鋒兵を率いさせ西征させた。冬十月庚寅、天地を祭った。丙申、党項の偵察者を捕らえ鬼箭で射た。丁酉、李元昊が謝罪の表を上げた。己亥、元昊が使者を遣わし叛党を収めて献ずることを乞い、これに従った。辛亥、元昊が使者を遣わし方物を進め、北院樞密副使蕭格に迎えさせることを詔した。壬子、軍を河曲に置いたところ元昊が親しく党項三部を率いて来ると言上があり、格に納叛背盟の理由を詰らせたところ元昊は罪を伏し、酒を賜り自新を許して遣わした。羣臣を召して議したところみな大軍が既に集まっているので討伐すべしとし、癸丑、数路の兵を督して掩襲し数千人を殺したが、駙馬都尉蕭呼都克が夏に捕らえられた。丁巳、元昊が先に捕らえられた者を送り帰ってきたので、留めていた夏使も国に還した。十一月辛酉、功のあった将校に等差をもって賜った。甲子、班師。丁卯、雲州を西京に改めた。辛巳、皇太后に朝じた。十二月己丑、西京に幸した。戊戌、北院樞密副使耶律迪里を右伊勒希巴とした。己亥、高麗が使者を遣わし来貢。戊申、蕭呼都克が夏より帰還した。

重熙十四年(1045年)

  • 春正月庚申、侍中蕭實喇を南院統軍使とし遼西郡王に封じた。庚午、鴛鴦濼に行幸。壬午、金吾衛大将軍逹嚕噶を伊實大王とした。甲申、夏国が使者を遣わし鶻を進めた。常侍額古徳が戦死しその子錫埒に帥を継がせた。二月庚子、皇太后に朝じ薩喇濼に駐蹕。三月己卯、宋が夏討伐の師を還し使者を遣わし賀した。四月辛亥、高麗が来貢。閏五月癸丑、永安山で避暑。六月丁卯、慶陵に謁した。己卯、準布大王通特古斯が諸酋長を率いて来朝。庚辰、夏国が来貢。辛巳、西南面招討使蕭普逹が戦死により同中書門下平章事を贈られた。秋七月戊申、中會川に駐蹕。冬十月甲子、木葉山を望祀した。十一月壬午朔、回鶻阿爾斯蘭が使者を遣わし来貢。甲辰、同知北院宣徽事蕭阿拉を北府宰相とした。十二月癸丑、漢軍の礟射・撃刺を観閲した。癸亥、滞獄を裁決した。

重熙十五年(1046年)

  • 春正月乙酉、混同江に行幸。契丹の奴婢を漢人に売ることを禁じた。二月乙卯、長春河に行幸。丙寅、博囉滿逹勒界の海蘭河の戸が帰属したので撫することを詔した。三月甲申、皇太后に朝じた。乙酉、應聖節により死罪を減じ徒罪以下を釈放した。辛卯、皇太后に朝じた。丁酉、高麗が使者を遣わし来貢。諸道に嵗ごとの獄訟を具申することを詔した。夏四月辛亥、五京の吏民の擊鞠を禁じた。戊午、約尼帳の戍軍を罷めた。壬戌、北女直詳衮蕭噶嚕を奚六部大王とした。甲子、永安山で避暑。甲戌、博囉滿逹勒界海蘭河の百八十戸が帰属した。
  • 六月癸丑、西京留守耶律瑪魯を漢人行宮都部署とし、參知政事楊佶を出して武定軍節度使とした。戊辰、清涼殿にて放進士、王棠ら六十八人。甲戌、西北路招討使耶律逹嚕噶が贓罪により免官となった。秋七月乙酉、豳王蘇克が薨じた。戊子、収穫を観察。乙未、北院宣徽使埒富を左伊勒希巴に、前南府宰相耶律吉遜を東北路詳衮とした。丙申、諸路の軍丁を籍にとった。丁酉、秋山に行幸。辛丑、従駕が民田を踏み荒らすことを禁じた。丁未、女直部長扎穆が衆を率いて来附したので太師を加えた。八月癸丑、高麗王欽が薨じ使者を遣わし告げてきた。九月甲辰、罝網による狐兎の捕獲を禁じた。冬十月己酉、中會川に駐蹕。十一月丁亥、南院樞密使蕭孝友を北府宰相に、契丹行宮都部署耶律仁先を南院大王に、北府宰相蕭格を同知北院樞密使事とし知伊勒希巴事に、耶律信先を漢人行宮都部署左伊勒希巴に、埒富を特哩衮漢人行宮都部署に、耶律迪里を左伊勒希巴とした。己亥、渤海部が契丹戸の例により軍馬を括すこととなった。乙巳、南京の貧民を賑済した。十二月壬申、徒罪以下を曲赦した。この日は聖宗在世の折の生辰であった。