遼史卷十 本紀第十 聖宗一

出自と生い立ち

  • 聖宗文武大孝宣皇帝は諱を隆緒、小字を文殊努といい、景宗皇帝の長子。母は睿智皇后蕭氏(後の承天皇太后)。幼くして書翰を好み十歳で詩を能くし、成長すると射法に精しく音律に通じ絵画を好んだ。乾亨二年(980年)梁王に封じられ、四年(982年)九月壬子、景宗が崩じた翌日、柩前で皇帝位に即いた。時に年十二。皇后(母)が遺詔により摂政した。

乾亨四年(982年)

  • 冬十月、群臣より尊号「昭聖皇帝」を、皇后には「皇太后」を奉り大赦した。南院大王巴古濟に山西諸州を総領させ、北院大王裕悦休格を南面行軍都統、奚王和碩鼐を副とし、蕭道寜を南京に駐屯させた。宋が犀帯を献じて請和したが書を欠くとして却けた。十二月、南面招討使秦王韓匡嗣が薨じた。

統和元年(983年)

  • 正月、大行皇帝の殯中は朝を受けず、遺詔により先帝庶兄扎穆を寧王に復封し、室昉・布琳らに恩を加えた。荆王道隱が病み、皇太后が邸に幸して見舞ったが、甲戌、道隱は薨じ晋王に追封された。裕悦休格を南京留守・南面行營總管とした。渤海の塔瑪嘉哩が殉葬を願い出たが許さず物を賜った。
  • 二月、宋が国境に築城・糧を集めていると知り休格に備えを厳にさせた。甲午、景宗を乾陵に葬り、近幸の朗掌飲伶人塔魯を殉葬とした。三月、皇女長壽公主を国舅宰相蕭婆項の子吳留に嫁がせた。四月、東京に幸し太祖廟に謁した。五月、太后が慶壽の礼を父母の家で行い、公主・命婦・群臣が物を進めた。西南路招討使が西突厥諸部討伐の増兵を請い派兵した。六月、有司に皇太后の尊号册礼を詳定させた。
  • 六月甲午、群臣が皇太后に「承天皇太后」、皇帝に「天輔皇帝」の尊号を上り大赦して統和と改元した。七月、皇太后が聴政を始めた。上は親しく囚を録し、再生礼を行った。八月、西巡して祖陵に謁し、皇太后は楚國王蕭思温の墓を祭った。九月、東京・平州の旱蝗を賑わせ、永興・長寜・敦睦三宮に謁した。帝の生日を千齡節とする詔を許した。十月、公主淑格を国舅詳衮珠克に嫁がせ、高麗征討に備え東京留守耶律穆濟の兵馬を親閲、布琳・克特らに東討を命じた。
  • 十一月、応州が宋の間諜を得て磔にした。十二月、三京・諸道の官吏に公方を執り阿順せぬよう、県令佐には非理の徴求に畏従せぬよう諭す詔を下し、父母と別居する者を隣里に糾察させ、三世同居の孝行者はその門閭を旌する詔を下した。

二年(984年)

  • 二月、東路行軍宣徽使蕭布琳が女直討伐の捷を報じた。三月、華喇部が詳衮の選任を本部限りとするよう求めたが、太后は人材登用に部の限定は認めぬとして許さなかった。四月、宣徽使蕭布琳・都監蕭勤德が女直討伐の捷を献じ布琳に政事令を加えた。五月、皇太后が滞獄を親決した。八月、東京留守耶律穆濟が女直の八族の内附を取り次ぎこれを納れた。

三年(985年)

  • 三月、樞密が契丹の諸役戸の困窮を奏し富戸による代役を請い、太后は諸部の戸籍を閲して納喇威二部の負担を軽減した。七月、高麗東征に備え諸道に甲兵を修めさせた。八月、遼澤の沮洳のため高麗征討を停め、樞密使耶律色珍を都統・駙馬都尉蕭懇德を監軍として女直討伐に振り替えた。九月、東征都統から路の泥濘で進軍できぬ旨の奏があり水の涸れるのを待つよう詔した。十一月、東征女直の都統蕭達林・菩薩努が行軍経路の地理・物産を報告した。