遼史卷九 本紀第九 景宗二

九年(977年)

  • 三月、耶律沙・迪里が漢援護の役で得た宋の捕虜を献じた。粟二十万斛を漢に援助する詔を下した。六月、宋王喜隠を西南面招討使とした。十月、耶律沙が党項降酋克酬摩約を伴い謁見、克酬を司徒、摩約を太保とした。十一月、遼は太保塔喇噶らを宋へ使者として遣わした。

十年(978年)

  • 五月、賜死女哩を機に髙勲らを誅した。九月、平王隆先の子辰格が父を殺害しようとして車裂の刑に処された。

乾亨元年(979年)

  • 正月、塔瑪長夀を宋に遣わし劉繼元討伐の理由を問わせ、宋は「河東は逆命、北朝が援けねば戦になる」と答えた。二月、漢が宋兵の圧迫を告げ、南府宰相耶律沙を都統、冀王迪里を監軍として救援に赴かせ、南院大王色珍・樞密副使穆濟も派兵した。
  • 三月、蘇色が別部の降を納れ、北院大王希達らを燕の守備に配した。四月、耶律沙らが白馬嶺で宋と戦い不利となり、冀王迪里・圖魯卜部節度使都敏・黄皮室詳衮唐古らが戦死、士卒の死傷も多かった。五月、宋兵が河東に至り漢は敗れ、劉繼文・盧俊が遼に奔った。六月、劉繼元が宋に降り漢は滅亡、劉繼文を彭城郡王に封じた。
  • 宋主(太宗)はさらに侵攻し南京を包囲、遼は耶律沙・希達らに沙河で迎撃させたが失利、宋主は南京を囲んだ。七月、耶律沙らが休格・色珍とともに髙梁河で宋兵を大破し、宋主は身ひとつで免れ涿州で驢車に乗って逃走した。追撃で得た戦利品は計り知れず、南京留守事を代行した韓徳讓・耶律學古・劉𢎞は褒奬された。
  • 八月、耶律沙らが献俘、白馬嶺の敗戦の責を沙・穆濟に問いつつも宋主撃退の功で釈し、希達・薩哈勒らも処分の軽重を分けて済ませた。九月、韓匡嗣を都統、耶律沙を監軍、特哩衮休格・南院大王色珍・穆濟をそれぞれ将として南伐、善補にも山西兵を分道進軍させた。
  • 十月、韓匡嗣が満城で宋兵に敗績したが、太保舒蘇は火山で宋兵を破った。韓匡嗣の五罪を数えつつも赦した。十一月、休格および有功将校に宴賞、南院樞密使兼政事令郭襲の畋猟を諌める上書を嘉納した。十二月、韓匡嗣を秦王に降封、道隱を南京留守・荆王に徙封した。

二年(980年)

  • 正月、皇子隆緒を梁王、隆慶を恒王に封じた。六月、喜隠が再び謀反し祖州に幽閉された。十月、南伐を開始、瓦橋関を包囲。十一月、宋兵の夜襲を圖魯卜部節度使蕭幹・四捷軍詳衮耶律赫徳が撃退、休格は瓦橋東で宋将張師を大破、水南でも宋兵を破り莫州まで追撃して殺傷甚だ多かった。十二月、休格を裕悦に拝し軍士を大いに饗した。

三年(981年)

  • 三月、皇子罕巴が卒し、韓匡嗣を西南面招討使とした。五月、上京の漢軍が乱を起こし喜隠を立てようとしたが果たせず、その子留禮夀を留守楚實勒が捕らえた。七月、留禮夀を誅した。十二月、遼興軍節度使韓徳讓を南院樞密使とした。

四年(982年)

  • 四月、自ら南伐し満城に至るも戦不利、太尉奚斡里が流矢で戦死、統軍使善補は伏兵に囲まれ樞密使色珍が救った。五月、班師。七月、喜隠に死を賜った。九月、雲州に幸し尚和山で狩猟中、帝は不豫となり、次いだ焦山で崩じた。年三十五、在位十四年。遺詔により梁王隆緒が嗣位し、軍国大事は皇后の命に従うとされた。統和元年(983年)正月、孝成皇帝と諡され、廟号を景宗とした。重熙二十一年(1052年)孝成康靖皇帝と諡を加えた。

史論

  • 遼興ってより六十余年、神冊・會同の間は日も暇なく、天禄・應暦の君は善終を得なかった。保寧に至って人々は治を望むようになり、景宗は資質・任人において疑わず信賞必罰、有為の主たりえたが、国力を尽くして河東(北漢)を助けたにもかかわらず軍を破られ将を殺され救うことができず、宋に一矢報いたとはいえ得るところより失うところが大きかった。韓匡嗣の罪を知りながら罰せず、郭襲の諫を容れながら用いず、沙門昭敏を左道により侍中に寵したのは惑いというべきである、と評される。