列女傳卷六 齊太倉女

父の肉刑を前に嘆く

  • 斉の太倉の女は、漢の太倉令であった淳于公の末娘で、名を緹縈という。淳于公には男子がなく、娘が五人いた。孝文皇帝の時、淳于公は罪を犯し肉刑に処されようとした。当時なお肉刑の制度が残っており、長安の獄に繋がれ、護送を待つ身となった淳于公は娘たちに「子を生んでも男でなければ、いざというとき役に立たない」と嘆いた。

緹縈の上書

  • 緹縈は自ら悲しみ泣きながら父に従って長安に至り、天子に上書した。「私の父は役人として、斉国では清廉公正と称えられておりましたが、今は法に触れて肉刑に処されようとしています。私が悲しむのは、死んだ者は生き返らせることができず、肉刑を受けた者は元の身体に戻せないことです。たとえ過ちを改め自ら新たになろうとしても、その道がありません。私は自ら官の婢となって父の罪を贖い、父に自ら新たになる機会を与えていただきたく存じます」と述べた。

文帝が肉刑を廃止する

  • 上書が奏上されると、天子はその心を憐れみ悲しみ、詔を下した。「有虞の時代には、衣冠を描き分け、通常と異なる服装をもって恥辱の印とし、それだけで民は罪を犯さなかったという、なんと至高の治世であったことか。今、肉刑は五種あるが、それでも奸悪はやまない。その咎はどこにあるのか。朕の徳が薄く教えが行き届いていないためではないか。私は深く恥じ入る。教え導きが純ならざるために、愚かな民がそこに陥ってしまうのだ」と述べた。
  • さらに『詩経』の「情け深い君子は、民の父母である」との句を引き、「今、人に過ちがあっても、教えを施す前に刑罰がすでに加えられている。過ちを改めて善をなそうとしても、その道がないのだ。私はこれを深く憐れむ。刑罰というものは手足を断ち肌を刻み、生涯癒えることがない、なんと痛ましく不徳なことか。これがどうして民の父母たる意にかなうといえようか。肉刑を廃止せよ」と命じた。
  • これ以降、額に入れ墨を施す刑は髠刑(髪を剃る刑)に、脇を抜く刑は笞刑に、足を切る刑は鉗刑(首かせ)に代えられた。淳于公はこうして罪を免れることができた。君子は「緹縈は一言をもって聖主の心を動かし、事の道理にかなったことを行った」と評した。

史論

  • 『詩経』に「言葉が喜ばしければ、民は安らかになる」とあるが、まさにこのことである。
  • 頌に曰く、緹縈が父のために訴え出たのは、まことに見識のあることであった。誠意を尽くして上書し、その文はきわめて整っていた。幼い娘の言葉が、ついに聖天子の心を動かし、肉刑を廃止させて父の罪を免れさせた、という。