三度の引っ越し(孟母三遷)
- 鄒の孟軻の母、孟母である。住まいが墓地の近くにあった頃、孟子は幼くして墓の間の事を真似て遊び、飛び跳ねては土を築いたり埋めたりした。孟母は「ここは子を住まわせる場所ではない」と言って市場のそばに引っ越した。すると孟子は商人の商売事の真似をして遊んだ。孟母はまた「ここも子を住まわせる場所ではない」と言い、今度は学校のそばに引っ越した。すると孟子は祭器を並べて礼儀作法の真似をして遊んだ。孟母は「ここでこそ子を住まわせられる」と言い、そこに落ち着いた。
- 孟子は成長すると六芸を学び、ついに大儒としての名を成した。君子は孟母が段階を追って感化させるのに長けていたと評した。
機を断つ戒め(断機の教え)
- 孟子が幼い頃、学業から帰ると、機を織っていた孟母が「学問はどこまで進んだか」と問い、孟子が「相変わらずです」と答えると、孟母は刀で織りかけの布を断ち切った。孟子が驚いて理由を問うと、孟母は「あなたが学問を廃するのは、私がこの織物を断ち切るのと同じこと。君子は学問によって名を立て、問うことで知識を広める。だから平時は安泰で、行動しても害を遠ざけられる。今学問を廃すれば、召使や賤役の身分から逃れられず、禍から離れることもできない。機織りをして生計を立てながら、途中で織るのをやめてしまうのと何が違うだろうか。女は食を絶ち、男は徳を修めることを怠れば、盗人になるか、人の召使になるほかない」と諭した。
- 孟子は恐れ入り、朝夕休まず学問に励み、子思に師事して、ついに天下の名儒となった。君子は孟母が母たる道をよく理解していたと評した。
嫁への配慮
- 孟子が妻を娶ったのち、私室に入ろうとすると、妻が肌を露わにして室内にいた。孟子は不快に思い、そのまま入らず立ち去った。妻は孟母に別れを告げて実家に帰ろうとし、「私は夫婦の道では私室には礼が及ばないと聞いておりましたが、今私がたまたま室内で肌を露わにしていたところ、夫が急に不快な顔をされたのは、私を客のように扱われたということです。婦人の義として、客として泊まることはできません。実家に帰らせてください」と訴えた。
- 孟母は孟子を呼び、「礼では、部屋に入ろうとするときは誰がいるか尋ねてから入り、堂に上がるときは声を上げて知らせ、戸を入るときは目を伏せて見るのが、人の過失を見ないようにするためである。今あなたは礼をわきまえずに人に礼を求めているのではないか」と述べた。孟子は謝罪し、妻を留めた。君子は孟母が礼を知り、姑としての道理に明るかったと評した。
斉での憂いへの助言
- 孟子が斉に仕えていたころ、憂いの表情を見せていた。孟母がその理由を尋ねると、孟子は「不敏なだけです」と答えたが、後日一人でいるとき柱にもたれて嘆いていた。孟母が再び尋ねると、孟子は「君子は自分の身分に応じた地位に就くべきで、いい加減に賞を受けたり、栄禄を貪ったりすべきではないと聞いています。諸侯が私の意見を聞き入れないなら、その君に近づくべきではなく、聞き入れられても用いられないなら、その朝廷に出仕すべきではありません。今、私の道は斉で用いられておりません。立ち去りたいのですが、母が老いておられるので、それで憂いているのです」と答えた。
- 孟母は「婦人の礼として、飯を精選し、酒や醤を用意し、舅姑に仕え、衣服を縫うことに尽きる。だから閨内の修養はあっても、家の外に志を持つことはない。『易経』に『中に居て食を整えるだけで、自ら成し遂げることはない』とあり、『詩経』にも『定まった作法を離れず、ただ酒食のことだけを議する』とある。これは婦人には自ら決める道理はなく、三従の道があるだけだと言うものだ。だから年若いうちは父母に従い、嫁いでは夫に従い、夫が亡くなれば子に従うのが礼である。今あなたはもう一人前であり、私は年老いた。あなたはあなたの義を行い、私は私の礼を行うまでのこと」と述べた。君子は孟母が婦道をよく理解していたと評した。
史論
- 頌に曰く、孟子の母は教化を分かりやすく示し、子供の遊び場所を選んで大きな倫理に従わせた。子の学問が進まぬときは機を断って示し、子はついに徳を成し、当代随一の人物となった、という。