陳寳應
- 陳寳應は晋安侯官の人で、代々閩中四姓の一つであった。父の羽は才幹に優れ郡の豪傑であった。寳應は変幻自在の気性で、梁代の晋安では反乱が絶えず郡将が殺されることが度々あったが、羽ははじめ扇動に加担しながら後に官軍の道案内を務めて鎮圧に転じ、これによって郡の兵権を掌握した。
- 侯景の乱で晋安太守賓化侯蕭雲は郡を羽に譲り、羽は老齢のため郡務のみを見て軍事は寳應に委ねた。東方が飢饉に苦しみ会稽が特にひどかった中、晋安のみは豊沃で兵力も強盛であった。景平定後、元帝は羽を晋安太守に任じ、陳の武帝が輔政となると羽は隠退を願い郡を寳應に伝えた。
- 紹泰三年(557年)侯官県侯に封ぜられ、武帝受禅後は閩州刺史・会稽太守を兼ねた。文帝即位後は父羽に光禄大夫を加え、宗正に命じて系譜を宗室に編入させた。寳應は留異の娘を娶り、侯安都が留異を討った際には援軍を送り、周廸に兵糧を援助して臨川に出兵させるなど朝廷への抵抗を続けた。都督章昭達が周廸を破ると、文帝は続けて寳應討伐を命じ、宗正に命じて属籍を絶たせた。
- 寳應は建安の湖際に拠って昭達を迎え撃ったが、昭達は深い堀と高い塁を築いて交戦を避け、筏を作って水量が増したところを流し柵を突破させた。寳應の軍は潰え、捕えられて建康の市で斬られた。
史論
- 侯景は辺境から起こり、あらゆる艱難を経て北から南へ渡り、狡猾な策謀を重ねた。当時、江表の地は久しく干戈を見なかった。梁武帝は晩年にもかかわらず釈教への思い入れに溺れ、外は藩屏の備えを緩め、内は防閑の心を絶ち、不虞に備えなかったため国を危うくした。加えて姦邪の臣が側にあって賄賂が通じ、景はこの機に乗じて詐りを恣にし、王偉が謀主となって文辞を飾った。武帝は音楽や学芸に溺れてこの邪説に惑わされ、景の軍がたやすく長江を渡って天険を失わせ、旌旗を都に向けさせて地の利を失わしめ、生霊は塗炭に苦しみ宗廟社稷は廃墟と化した。
- こうして村や邑の豪族、山間の頭目たちが乱に乗じて暴虐を働き、掠奪をもって雄を競う世となった。陳の武帝は時運に応じて天下を鎮撫し安定をもたらしたが、熊曇朗・周廸・留異・陳寳應らは、興隆の時運に遭いながらもなお迷いの道を改めず乱を志し続けたため、自ら誅殺を招いたのも当然のことであった。