南史卷七十八 列傳第六十八 夷貊上

総説(海南諸国)

  • 海南の諸国はおおむね交州の南から西南の大海の島々に位置し、近いもので四、五千里、遠いものは二、三万里離れている。西は西域諸国と接する。
  • 漢の元鼎年間、伏波将軍路博徳が百越を平定して日南郡を置いて以来、徼外の諸国は武帝以来朝貢を続けた。後漢桓帝の代には大秦・天竺もこの道を経て使者を送るようになり、呉の孫権の時代には宣化従事の朱応・中郎の康泰が諸国を巡って国情を記録した。
  • 晋代は中国と通交する国が少なく史官の記録も乏しかったが、宋・斉から梁にかけて正朔を奉じて朝貢する国が相次いだため、その風俗の著しいものを採って「海南」の伝とする。

林邑国

  • 本は漢の日南郡象林県、古の越裳の地。伏波将軍馬援が南境を開いてこの県を置いた。広さは六百里、城は海まで百二十里、日南の南界まで四百余里、北は九徳郡に接する。馬援が立てた二本の銅柱が漢の境界を示す。
  • 国内の金山では夜に金気が飛び出るという伝承があり、瑇瑁・貝歯・古貝(木綿の一種)・沈木香を産する。沈木香は木の芯が水に沈むもの、浮くものは棧香と呼ばれる。
  • 漢末の混乱で功曹の区連が県令を殺して自立し、数世を経た後、王に嗣子がなく甥の范熊が継ぎ、その子逸が継承。晋の成帝の咸康三年(337年)に逸が死ぬと、家奴の文(奴文)が簒奪した。
  • 文はもと日南西巻県の夷帥范稚の家奴で、二匹の鱧魚が化した鉄で刀を鋳させ「この石を断ち割れる者がこの国の王となる」との咒を刻んだという伝説を持つ。范稚の信任を得て林邑王に宮室・兵車の作り方を教え権勢を得たが、王の諸子は讒言により他国へ逃れ、王の死後嗣子なきに乗じ、隣国から迎えた王子を毒殺して国人を脅し自立した。
  • 交州刺史の姜莊は韓戢・謝稚を日南郡監督に送ったが搾取が甚だしく、諸国の患いとなった。穆帝の永和三年(347年)、朝廷が夏侯覧を太守に送ったが侵掠が激しく、林邑は日南の肥沃な土地を欲していたため、民の怨みに乗じて覧を殺しその屍を天に祭り、日南を三年間占拠して後撤退。交州刺史朱藩が督護劉雄を送って日南に駐屯させたが、文は再びこれを滅ぼし九徳郡にも侵攻、日南の北界横山を境とするよう求めたが藩は許さなかった。文は林邑に帰り、まもなく日南に再駐屯したが、文の死後は子の仏が跡を継いだ。
  • 征西将軍桓温が督護滕畯・九真太守灌邃を派遣して討伐、林邑まで追撃すると仏は降伏を請うた。安帝の隆安三年(399年)、仏の孫湏達が再び日南・九徳を侵し、交州は疲弊した。湏達の死後、子の敵真が跡を継いだが、弟の敵鎧は母と共に出奔。敵真は母弟を許容できなかったことを悔い、国を捨てて天竺に赴き、甥の国相蔵驎に禅位したが、蔵驎は固く諫めたにもかかわらずその甥に殺され、蔵驎の子がまたその甥を殺して立ち、敵鎧の異父弟文敵を立てた。文敵は後に扶南王の子当根純に殺され、大臣范諸農が乱を平定して自立した。
  • 諸農の死後、子の陽邁が立った。陽邁は懐妊中に母が金の敷物に乗る子を産む夢を見たことから、夷人が黄金の精を「陽邁」と呼ぶのに因んで名付けられたという(中国でいう紫磨金のようなもの)。宋の永初二年(421年)に朝貢し陽邁は林邑王に冊封された。陽邁の死後、子の咄が簒立し、父の名を再び名乗り陽邁と称した。
  • 風俗:住居は「干闌」と呼ばれる高床式で門戸は北向き。木の葉に文字を書き、男女とも古貝の布を腰に巻く(「干漫」または「都漫」と呼ぶ)。耳に穴をあけて小環を通し、貴人は革履、賤者は跣足。王以下は仏像のような瓔珞を身に着け、出御には象に乗り螺・鼓を鳴らす。刑法は定まらず、罪ある者は象に踏み殺させる。大姓は「婆羅門」と号し、婚姻は八月に行い女から男に求婚する風で、同姓婚を尊ぶ。死者は火葬に付す。国王は尼乾道(ジャイナ教系の道)を奉じ、大きな金銀の人像を鋳造する。
  • 元嘉の初め、陽邁が日南・九徳を侵し、交州刺史杜𢎞文が討伐の構えを見せると聞いて撤退した。元嘉八年(431年)にも九徳郡を侵し四会浦口に侵入したが、交州刺史阮弥之の隊主相道生が討伐、区栗城の攻略には失敗して撤退。以後十二・十五・十六・十八年と朝貢するも貢物は乏しく侵略はやまなかったため、文帝は怒り、元嘉二十三年(446年)交州刺史檀和之・振武将軍宗慤を派遣して討伐させた。
  • 檀和之は司馬蕭景憲を先鋒とした。陽邁は恐れて金一万斤・銀十万斤・銅三十万斤を贈り略取した日南の民を返還すると申し出たが、大臣䓯僧達がこれを諫止し、大帥范扶龍に区栗城を守らせた。景憲はこの城を攻略し、勢いに乗じて林邑本国も陥落させた。陽邁父子は逃走し、未曾有の珍宝と、鋳つぶした金人像から得た黄金数十万斤を得た。
  • 檀和之は高平金郷の人、檀馮之の子。この功により雲杜県子に封ぜられたが、後に南兖州刺史として酣飲・貨をむさぼり獄中の女子を私邸に入れた罪で免官・禁錮され、病死後は胡神の祟りとされ、左将軍を追贈され諡は襄子。
  • 孝武帝の孝建二年(455年)、林邑は長史范龍跋を派遣し貢献、龍跋は揚武将軍に任ぜられた。大明二年(458年)、林邑王范神成が長史范流を送り金銀器・香・布などを献上。明帝の泰豫元年(472年)にも貢献。斉の永明中には范文賛が度々貢献。梁の天監九年(510年)、文賛の子天凱が白猴を献上し、持節督縁海諸軍事・威南将軍・林邑王を加えられた。天凱の死後、子の弼毳跋摩が立ち貢献。普通七年(526年)、王高戍勝鎧が貢献し持節督縁海諸軍事・綏南将軍・林邑王とされた。大通元年(527年)にも貢献、大通二年(528年)には行林邑王高戍律陁羅跋摩が貢献し同じ称号を得た。六年(532年)にも貢献した。
  • 広州の諸山には狸獠の種族が繁殖し、しばしば侵暴した。宋孝武帝の大明中、合浦の大帥陳檀が帰順して龍驤将軍を拝命したが、檀が官軍の征討を乞うと、朝廷は檀を高興太守とし、前朱提太守費沉・龍驤将軍武期を南征させ朱崖への道も開通させたが功なく、しかも沉は檀を殺して反乱、下獄して死んだ。

扶南国

  • 日南郡の南、海西の大湾中にあり、日南から七千里、林邑の西南三千余里。城は海まで五百里、川幅十里の大河が西から東へ流れ海に注ぐ。国土は広さ三千余里、低湿で平坦。気候・風俗はおおむね林邑と同じで、金銀銅錫・沈木香・象・犀・孔雀・五色鸚鵡を産する。
  • 南界三千余里に頓遜国があり、海の岬にあって五人の王がおり皆扶南に服属する。頓遜の東は交州の商人に通じ、西は天竺・安息の徼外諸国に接し、市場は日に一万余人が交易する。花の汁を甕で数日おいて作る酒の樹もある。
  • 頓遜の外洋には毗騫国があり、王は身長一丈二尺、頭は三尺、不老不死と伝えられる神聖な王とされ、人肉を食う法があるなど奇異な伝承が多い。
  • 起源伝説:扶南はもと裸身・入れ墨・断髪の風で、衣裳を作らず、女王「桞葉(柳葉)」が国を治めていた。混塡という者が神の夢告で弓を授かり海を渡って扶南に至り、柳葉の民が船を襲おうとしたのを弓で撃退、柳葉は降伏して混塡の妻となり、国を七邑に分けてその子孫に分封した。
  • 後代の王混盤況は詐略で諸邑を互いに疑わせて併合し、九十余歳で没した後、中子盤盤が継いだが国事を大将范蔓に委ね、盤盤の死後三年で国人が范蔓を王に推戴した。范蔓は勇健で権略あり、周辺国を武威で服属させ「扶南大王」を自称、大船を造り開国し、五、六千里の地を開いた。金鄰国征討の途上で病に倒れ、太子金生に代行させたが、姉の子旃が金生を欺いて殺し簒奪。范蔓の死時に生まれた乳飲み子「長」が成人後に壮士を集めて旃を殺したが、旃の大将范尋がまた長を殺して代わって立った。
  • 范尋は宮観楼閣を築いて遊興し、訴訟は焼いた斧を三日精進潔斎の後七歩運ばせる、あるいは金環と卵を沸湯に投じて拾わせるなど神明裁判で判じ、罪を焼き印の火傷の有無で判定した。城の濠には鰐魚を、城外の檻には猛獣を飼い、罪人を投げ与えて食われなければ無罪として三日後に放免した(鰐は長さ三丈余、四足・鋭い歯を持つ)。
  • 呉代、中郎康泰・宣化従事朱応が使者として扶南に赴き、当時裸で暮らしていた国人に横幅(=干漫)を着るよう教えた。
  • 晋の武帝の太康中に初めて朝貢。穆帝の升平元年(357年)、王竺旃檀が馴象を献じたが、朝廷は費用を理由にこれを止めた。
  • のち王憍陳如は天竺の婆羅門の出で、神託により扶南王に迎えられ、盤盤に至ると国人が挙って歓迎、天竺の制度・法に改めた。その死後は持棃陁跋摩が王となり、宋文帝の元嘉十一・十二・十五年に貢献。斉の永明中、王憍陳如闍邪跋摩が貢献。梁の天監二年(503年)、跋摩が珊瑚の仏像と貢物を献じ、安南将軍・扶南王を授けられた。
  • 国人はみな色黒く縮れ髪で、井戸は持たず数十家で一つの池を共用。天神を銅像(二面四臂、四面八臂で日月や鳥獣を持つ)で祀る。王の出入りには象を用い、嬪妾も同様。王は左膝を地に付けて偏踞し、白い敷物の前に金の盆・香炉を置く。喪には剃髪し、葬法は水葬・火葬(焼いて灰にする)・土葬・鳥葬の四種がある。人は貪欲で礼儀に乏しく、男女とも自由な関係を持つとされる。
  • (元嘉)十年・十三年にも跋摩は貢献を重ねたが、その年に死去、庶子の留陁跋摩が嫡弟を殺して自立。十六年、使者竺当抱老が貢献。十八年、天竺栴檀の瑞像・菩提樹葉・火斉珠・鬱金・蘇合等の香を献上。普通元年・中大通二年・大同元年にも貢献を重ね、大同五年(539年)にも生犀を献じ、加えて仏髪(長一丈二尺)があると称して僧曇寶を迎えに遣わすことを求めた。

阿育王塔と舎利をめぐる逸話

  • これに先立つ大同三年(537年)八月、武帝は阿育王仏塔を改造し、旧塔の下から舎利および仏の爪髪を得た。髪は青紺色で、手で伸ばすと引き延びて放すと巻いて蠡(にな貝)の形に戻る。『僧伽経』に仏髪は青くて細く藕(はす)の茎糸のようとあり、『仏三昧経』にも仏が宮中で頭を洗い髪を計ると長さ一丈二尺、放つと右巻きに蠡形に戻るとあり、これが武帝の得たものと同じと確認された。
  • 阿育王(鉄輪王)は閻浮提を統べる王で、仏滅度後一夜で鬼神に八万四千塔を造らせたと伝わり、この塔もその一つ。呉代には尼がこの地に小精舎を構えたが孫綝がこれを毀した。呉の滅亡後、道人たちが旧地に再建。晋の元帝が渡江後に修飾を加え、簡文帝の咸安中には沙門安法程が小塔を造ろうとして未完のまま死去、弟子の僧顕が継いで完成させ、孝武帝の太元九年(384年)に金の相輪と承露盤を上げた。
  • 西河離石県の胡人劉薩何が病で急死した後、心臓がまだ温かく、七日目に蘇生して語ったところによれば、二人の官吏に連れられて西北に向かい、十八地獄を巡って軽重に応じた責め苦を見せられ、観世音から「寿命が尽きていなければ、洛下・斉城・丹陽・会稽にある阿育王塔を巡拝すれば地獄に堕ちずに済む」と告げられて蘇生したという。これにより出家し、名を慧達と改め、塔巡礼のため丹陽に至り、越城に登って霊気を見て古い阿育王塔跡を発見、掘って三つの石碑(各長さ六尺)と、鉄函・銀函・金函に納められた舎利と髪爪を得た。
  • これらの舎利は簡文帝が建てた塔の西側に新たに層塔を建てて移し、(元号不詳の)十六年、沙門僧尚が三層に増築したのが、武帝が開いた塔にあたる。
  • 掘削の際、地下四尺で龍の棲み処と昔人が奉納した金銀の環釧・釵鑷などの品を得、九尺ほどで石磉(土台石)に至り、その下に石函があって内に鉄壺、壺内に銀坩、坩内に金鏤の甖があり粟粒大の舎利三粒を納め、円く光沢を放っていた。函内にはさらに瑠璃椀があり、四粒の舎利と沈香色の爪髪四枚が入っていた。
  • その月二十七日、武帝は寺に赴いて礼拝し無碍大会を設けて大赦。金の鉢に水を張って舎利を浮かべたところ、最も小さいものだけ見えなかったが、拝礼を数十回重ねると鉢の中で光りながら回転し、やがて中央で止まった。武帝が大僧正慧念に「不可思議の事を見たか」と問うと、慧念は「法身は常住にして湛然不動」と答えた。武帝は舎利一粒を宮中に迎えて供養したいと申し出た。
  • 九月五日にも寺で無碍大会を設け、皇太子・王侯・朝貴らを遣わして舎利を迎えさせた。この日は都中が観衆で満ち、金銀の供養具は寺に留め置かれ、さらに銭一千万を寺の基業として施した。(大同)四年九月十五日にも武帝は寺で無碍大会を設け、二つの塔を建て、それぞれ金の甖に玉の甖を重ね、舎利・爪髪を七宝塔に納め、さらに石函に宝塔を入れて両塔に分置した。塔の下や王侯・妃・百姓・富室が寄進した金銀の環釧などの財宝も塔に充満した。
  • (大同)十一年十一月二日、寺僧が武帝を招いて般若経の講題を開くと、その夜二塔が共に光を放った。武帝は鎮東の邵陵王綸に命じて寺の大功徳碑文を作らせた。
  • これに先立つ(大同)二年、会稽鄮県の塔を改造した際にも旧塔から舎利が出て、光宅寺の僧敬脱ら四人の僧と舎人孫照が一時的に都に迎え、武帝の礼拝の後、県に送り返して新塔に納めた。この県の塔も劉薩何が発見したものである。
  • 別の伝承として、晋の咸和中(326〜334年)、丹陽尹高悝が張侯橋で川中に長さ数尺の五色の光を見つけ、光の場所を探させると台座のない金像が見つかった。高悝は像を車に載せて運ばせたが、長干巷の入り口で牛が動かなくなり、牛の行くに任せると寺に着いたため、そこに像を留め置いた。夜ごとに光を放ち、空中に金石の響きが聞こえたという。一年後、臨海の漁師張係世が海で銅の花形台座を見つけて県に送り、県はさらに都に送ったところ、像の足にぴったり合った。
  • 簡文帝の咸安元年(371年)、交州合浦の人董宗之が真珠を採りに潜水した際に仏の光炎(後光の装飾)を見つけて交州から都に送ると、これも像に合わさった。咸和年間に像を得てから咸安の初めまで三十余年を経て、ようやく光台座一式が揃った。
  • 高悝が像を得た後、西域の胡僧五人が訪れ「昔天竺で阿育王が造った像を鄴に運ぶ途中、胡の乱で河辺に埋めて所在を失い、ある夜五人ともこの像が江東で高悝に得られた夢を見た」と語り、寺で像に対面して感涙にむせぶと、像は光を放って殿宇を照らした。
  • また瓦官寺の僧慧邃がこの像を模写しようとしたところ、寺主僧尚は金色が損なわれることを恐れ「像が光り西を向けば模写を許す」と条件を付けると、慧邃が懇拝すると夜のうちに像が座を転じ西を向いて光を放ったため、翌朝これを模写することが許された。
  • 像の台座には外国文字が刻まれていたが誰も読めず、後に三蔵那跋摩がこれを識別し、阿育王が第四王女のために造らせたものと判明した。
  • 大同中、旧塔から舎利が出た際には敕命で寺周辺の数百戸の宅地を買い上げて寺域を広げ、諸堂殿と瑞像・周回の楼閣などを壮麗に造営した。諸経変相図は呉人張繇が手ずから描き、その丹青の技は当時随一と称された。

訶羅陁国

  • 宋の元嘉七年(430年)、使者を送り「聖主が三宝を篤く信じ塔寺を興立して世界に満ちていると承り、あえて使者一人を送りこの微意を表す」との上表を献じた。

呵羅單国

  • 都は闍婆洲。元嘉七年、金剛の指輪・赤い鸚鵡・天竺の白い古貝(木綿)・葉波国の古貝などを献上。十年、王毗沙跋摩が「常勝天子陛下、諸仏世尊は常楽安穏にして三達六通を具え世間の導たる如来である。ゆえに至誠をもって五体投地の礼を捧げる」との上表を送ったが、後に子に位を簒奪された。十三年にも上表、二十六年には文帝が呵羅単・婆皇・婆逹の三国が遠海を越えて誠を尽くし朝貢したことを詔で称え、あわせて冊封の使者を送った。二十九年、長史婆和沙弥を送り貢物を献じた。

婆皇国

  • 元嘉二十六年、国王舎利婆羅跋摩が四十一種の貢物を献じ、文帝は婆皇国王に冊封。二十八年にも貢献。孝武帝の孝建三年(456年)、長史竺那婆智が上表し貢物を献じ、那婆智は振威将軍に任ぜられた。大明三年(459年)赤白の鸚鵡を献上、大明八年・明帝の泰始二年(466年)にも貢献。長史竺湏羅逺・前長史振威将軍竺那婆智はいずれも龍驤将軍とされた。

婆達国

  • 元嘉二十六年、国王舎利不陵伽跋摩が貢物を献じ、文帝は婆逹国王に冊封。(原文のまま)二十六年・二十八年に重ねて貢献。

闍婆達国

  • 元嘉十二年、国王師黎婆達呵陁羅跋摩が使者を送り、「宋国の大主、大吉天子の足下は一切を教化する種智を持ち、天人の師として四魔を降伏し等正覚を成じて尊法輪を転じ衆生を度脱する。私は遠方にあってもその霊潤に浴している」との上表を献じた。

槃槃国

  • 元嘉・孝建・大明の各年間に貢献。梁の中大通元年・四年、王が使者に上表を送らせ、たびたび仏牙および画塔を献じ、沈香・栴檀などの香数十種を献上。六年八月にも菩提国の舎利・画塔図・菩提樹葉・栴檀香などを献じた。

丹丹国

  • 中大通二年、王が上表し牙像と画塔二軀、火斉珠・古貝・雑香薬を献じた。大同元年にも金銀・瑠璃の宝物を献じた。

干陁利国

  • 海南の島にあり、風俗は林邑・扶南とほぼ同じ。斑布・古貝・檳榔を産し、檳榔は諸国随一の良品とされる。宋孝武帝の代、王釈婆羅那鄰陁が長史竺留陁を遣わし金銀の宝器を献上。
  • 梁天監元年(502年)、王瞿曇修跋陁羅は四月八日、夢に一人の僧が現れ「中国に今聖主がおり十年後に仏法が大いに興る。使者を送って貢奉し礼敬を尽くせば国土は豊かに栄え、商人の利は百倍となろう。信じなければ国は安泰でなくなろう」と告げるのを見た。初めは信じなかったが再度夢に現れ「信じないなら共に見に行こう」と言われ、夢の中で中国に行き天子に拝謁した。目覚めて心中これを不思議に思い、絵の心得があった修跋陁羅は夢に見た武帝の姿を丹青に描き、使者と画工を遣わして玉盤等の貢物とともに献上させたところ、使者が実際に武帝を見て写した容貌はもとの絵とぴたり一致していた。
  • 跋陁羅の死後、子の毗針邪跋摩が立った。十七年、長史毗員跋摩を遣わし金の芙蓉や香薬等を献上。普通元年にも貢物を献じた。

狼牙脩国

  • 南海にあり、東西三十日行・南北二十日行の広さ、広州から二万四千里。産物は扶南とほぼ同じで棧香・沈香・婆律香に富む。風俗は男女とも上半身裸で古貝を「干漫」とする。王・貴臣は雲霞のように布を身に覆い、肩を金の紐で飾り環をつける。女子は瓔珞を身に巻く。城は煉瓦積みで重門・楼閣を備え、王の出御は象に乗り幡旄・旗鼓・白蓋を伴い、儀衛は厳重。
  • 建国以来四百余年を経て後嗣が衰え、王族の賢者を国人が推戴しようとした際、王がこれを捕え、繋いだ鎖が理由なく自ら切れたため神威と恐れて処刑を控え、境外に追放した。その者は天竺に逃れ天竺王の長女を娶り、狼牙王の死後、大臣が迎えて王に立てた。二十余年在位して死に、子の婆伽達多が継いだ。天監十四年(515年)、使者阿撤多を送り上表した。

婆利国

  • 広州の東南、海上の島にあり、広州から船で二か月。国域は東西五十日行・南北二十日行で、百三十六の集落がある。気候は中国の盛夏のように暑く、穀物は一年に何度も実り草木は常に茂る。海には文螺・紫貝を産し、坩貝羅という石は採ったときは柔らかいが刻んで乾かすと硬くなる。
  • 国人は古貝の布を纏い(「都縵」と呼ぶ)、王は斑糸の布を用い、瓔珞を身に巻き、頭には高さ一尺余の金冠を戴き、七宝の飾りを付ける。金装の剣を帯び、金の高座に偏坐して銀の踏み台に足を乗せる。侍女は金花・宝飾を身に着け、白眊や孔雀扇を持つ者もいる。王の出御は象に象がる香木の輿に乗り、羽蓋・珠簾を施し、螺・鼓の先導を伴う。
  • 王の姓は憍陳如で、古来中国とは通交がなく先祖や年数も記録されていないが、自ら「白浄王(仏の父)の夫人はこの国の女であった」と伝えている。天監十六年(517年)、使者を送り金の敷物などを献上。普通三年(522年)、王頻伽は使者珠智を遣わし、白鸚鵡・青虫・兜鍪・瑠璃器・古貝・螺杯・雑香薬など数十種を献じた。

中天竺国

  • 大月支の東南数千里、地は方三万里、別名を身毒という。漢代、張騫が大夏に使いした際に卭竹の杖や蜀の布を見て、身毒(=天竺)で売られていると聞いた。月支の高附から西南に至り西海に至るまで盤越に至る諸国が置かれ、それぞれ王を持つが、名は異なっても皆身毒に属する。漢代は月支に隷属し、風俗は月支と同じだが低湿・暑熱で人々は戦を恐れ月支より弱い。
  • 大河「新陶」(源は崑崙、五つの支流に分かれ総称して「恒水」)が流れ、水は甘く美味。真塩を産し水晶のように白い。犀・象・貂鼠・瑇瑁・火斉・金銀・銅鉄・金糸織物・細やかな白い綿織物・良質の皮衣・毾㲪などを産する。火斉は雲母のような形で紫金色の光沢を持つとされる。
  • 西は大秦・安息と海上交易し、大秦の珊瑚・琥珀・金碧・珠璣・琅玕・鬱金・蘇合などの珍品が多く入る。蘇合は各種の香汁を煮詰めたもので単一の産物ではなく、大秦人がまず汁を搾って香膏とし残りかすを他国の商人に売る、との説もある。鬱金は罽賓国だけに産し花色は黄色で芙蓉に似、まず仏寺に奉納して乾燥させた後に商人が転売する。
  • 漢桓帝の延熹九年(166年)、大秦王安敦が使者を日南の徼外から送り献上した。漢代に通交したのはこの一度のみ。
  • 孫権の黄武五年(226年)、大秦の商人秦論が交阯に来訪、太守呉邈が孫権のもとへ送った。孫権が風俗・地理を尋ねると論はつぶさに答えた。当時諸葛恪が丹陽を討伐して得た黝歙の背の低い人々(短人)を見せられた論は「大秦でもこれほど珍しい人は見たことがない」と語ったという。孫権は男女各十人を付けて劉咸に交阯まで送らせたが、劉咸は道中で亡くなり、論はそのまま帰国した。
  • 天竺は漢の和帝の時代にしばしば朝貢したが、西域の反乱後絶え、桓帝の延熹三・四年に日南の徼外から再び朝貢。魏晋の代には全く通じなかったが、呉の時代に扶南王范旃が家臣蘇勿を天竺に遣わし、扶南から拘利口を経て海を渡り数国を巡って一年余りで天竺の川口に到着、さらに逆流七千里で天竺に至った。天竺王は「海辺の遠国からもこのような使者が来るのか」と驚き、国内を見学させ、陳宋ら二人に月支の馬四頭を持たせて返礼の使者とし、往復四年をかけて扶南に到着。
  • ちょうど呉が中郎康泰を扶南に派遣していた折で、泰は陳宋らに詳しく天竺の風俗を尋ね、仏道の興る国であること、都城の水利・宮殿の彫刻・市街の賑わい、王の名は「茂論」であること等を知った。天竺は嘉維・舎衛・葉波など十六の大国から遠く二、三千里を経て共に敬われ、天地の中心とされる。
  • 天監の初め(502年前後)、王屈多が長史竺羅達を遣わし瑠璃の唾壺・古貝等を献上した。

天竺迦毗黎国・蘇摩黎国・斤陁利国・婆黎国

  • 迦毗黎国:元嘉五年(428年)、国王月愛が金剛の指輪・摩勒・金環等の宝物と赤白の鸚鵡各一羽を献上。明帝の泰始二年(466年)にも貢献し、使主竺扶大・竺阿珍はともに建威将軍とされた。
  • 蘇摩黎国:元嘉十八年(441年)、国王那羅跋摩が貢物を献じた。
  • 斤陁利国:孝武帝の孝建二年(455年)、国王釈婆羅那隣陁が長史竺留陁らを遣わし金銀の宝器を献上。
  • 婆黎国:廃帝の元徽元年(473年)、貢物を献じた。
  • これら諸国はいずれも仏道を奉じている。仏道は後漢明帝の代に初めて中国東方に伝わって以来、次第に広まり一つの学問の系統をなすに至った。
  • 元嘉十二年(435年)、丹陽尹蕭摹之が上奏し、「仏法は中国に既に四代にわたり広まったが、近年は奢侈を競う風が強い。今後、新たに銅像を鋳造しようとする者、塔寺・精舎を建立しようとする者は、必ず官に届け出て許可を得てから着工させるように」と請い、詔で許可された。またこれを機に沙汰され還俗した僧は数百人に及んだ。
  • 孝武帝の大明二年(458年)、僧曇標と羌人高闍が謀反を企てた事件を機に、詔が下って各地で僧の厳しい選別が行われ、違反すれば厳罰に処すとされた。戒行の精しくない者はことごとく還俗させる条禁が定められたが、寺の尼が宮中に出入りし妃后と交わることを禁じる条項は結局実行されなかった。
  • これに先立ち、晋代の庾冰が沙門に王者への敬礼を求める議を初めて起こし、後に桓玄も同様の主張を述べたが、いずれも実現しなかった。大明六年(462年)、孝武帝は有司に命じて沙門が謁見の際に敬礼を尽くすよう奏させ許可されたが、前廃帝の代に旧に復した。
  • 孝武帝の寵姫殷貴妃が薨じた際にはこれを弔う寺が建てられ、貴妃の子子鸞が新安王に封じられたことに因み新安寺と名付けられた。前廃帝が子鸞を殺した後、新安寺は破却され僧徒は追放され、続いて中興寺・天寶寺も破却された。明帝が乱を平定すると勅命で修復された。
  • 宋代の高僧に道生がいた。彭城の人で父は広戚令。道生は沙門となり法大の弟子となる。幼くして聡明で十五歳で経を講じ、成長するにつれ独自の解釈を立て「頓悟」の説を唱えて世に推服された。元嘉十一年(434年)、廬山で没し、沙門慧琳が誄(悼辞)を作った。
  • 慧琳は秦郡秦県の人、姓は劉氏。若くして出家し冶城寺に住み、文才があり内外の学に通じ、廬陵王義真に重用された。かつて『均善論』を著して仏法をやや貶した内容とし、儒教を体現する「白学先生」(聖人の教えは百世に及び智は万変を極める、と論じる)と仏教を代表する「黒学道士」(幽冥の道理・来世の因果を照らせていない、と難ずる)を客主に見立てた問答形式で、最終的に六度(仏教の実践徳目)と五教(儒教の教え)は並び行われ得ると結論づけた。旧来の僧はこれを釈氏を貶めるものと見て排斥を求めたが、文帝はこの論を称賛した。元嘉中には政治にも関与するようになり、賓客が門前市をなし、四方から贈賄が相次いで権勢は宰輔に並ぶほどとなった。高屐を履き貂裘をまとい、書状の取次役を従えるさまは宰相のようであった。会稽の孔顗が訪ねた際、賓客に埋め尽くされ挨拶だけで終わったのを見て「黒衣の宰相がいるとは、冠履の秩序が乱れたものだ」と嘆いたという。慧琳は『孝経』や『荘子』逍遥篇の注釈も著し世に伝わった。
  • また慧厳・慧義の両僧は東安寺に住み学識・修行ともに精しく道俗に推服され、当時「鬬場寺は禅の窟、東安寺は義(教理)の林」と評された。
  • 孝武帝の大明四年(460年)、中興寺の斎会に見知らぬ僧が現れ、名を「明慧」、来歴を「天安寺から来た」と答えたがそのまま姿を消した。天下にそのような寺はなかったため、以後中興寺は天安寺と改称された。
  • 大明中には外国僧摩訶衍が都で活動し、新しい経典(勝鬘経など)を訳出し、その学識は特に重んじられた。

師子国

  • 天竺の隣国で、四季を通じ寒暖の差がなく、五穀は季節を問わず栽培できる。もとは無人で鬼神と龍の住処であったが、諸国の商人が来て市を開くと、鬼神は姿を見せず宝物だけを出して値を示し、商人がそれに応じて品を得た。この地の豊かさを聞いた諸国人が競って移り住み、大国となった。
  • 晋の義熙の初め(405年前後)、玉の仏像を献上、十年をかけて到着した。像は高さ四尺二寸、玉の色は潤い形は特異で人工とは思えぬ出来。この像は瓦官寺に安置され、以前からあった徴士戴安道手作りの仏像五軀・顧長康筆の維摩図と合わせ、世に「三絶」と称された。しかし斉の東昏侯が玉像を破壊し、腕を切り取って寵妾潘貴妃の釵釧に作らせた。
  • 宋の元嘉五年(428年)、王刹利摩訶が使者を送り貢献。十二年にも貢献。梁の大通元年(527年)、後王迦葉伽羅訶黎邪が使者を送り貢献した。