陸驗(附・徐驎)
- 陸驗、徐驎はともに呉郡呉の人。驗は若くして貧苦落魄で行いも定まらなかったが、邑人の郁吉卿が富裕でこれに傾身して事え、吉卿の銭米を借りて商販に用い千金を成した。都に出て貲を散じ権貴に事え、朱异とは同邑の子弟で恩義があったことから武帝に取り立てられ、徐驎とともに交互に少府丞・大市令となった。驗は本来芸業もなく容貌が特に醜く、以前異国から献じられた生犀の陋な形にちなんで「生犀」と呼ばれた。驗・驎はともに苛刻を務め商人はこれを畏れ、朱异も特に親昵し世人は「三蠧」と称した。司農卿傅岐は梗直な士で异に「卿は国政に参与し栄寵はこの通りだが、近ごろ鄙穢の噂ばかり聞く、もし聖主が悟れば免れられるだろうか」と語ると、异は「外の謗讟は久しく知っている、心に愧じることがなければ人の言を気にしない」と答え、岐は人に「朱彦和(异)はまもなく死ぬだろう、諂いに頼り容を求め弁を肆にして諫を拒み、難を聞いても懼れず悪を知っても改めない、天が鑑を奪えばどうして長く保てようか」と語った。驗はついに侵削を能事として数年で高位に列し佩珮も貂に飾られ英彦と肩を並べるまでになり、太子右衛率に至って卒し右衛将軍を贈られたが、遠近はその死を聞いて快哉とした。驎はもと邵陵王綸に恨まれ、太清二年(548年)綸に殺された。