南史卷七十六 列傳第六十六 馬樞

馬樞

  • 馬樞、字は要理、扶風郿の人。祖の霊慶は斉竟陵王録事参軍。樞は数歳で孤となりその姑に養われ、六歳で孝経・論語・老子を誦し、長じて経史を博く極め、特に仏経および周易・老子の義に精しかった。梁の邵陵王綸が南徐州刺史であった時、名を聞いて学士に招き、綸自ら「大品経」を講じる際、樞に「維摩」「老子」「周易」を同日に講じさせ、道俗の聴衆は二千人に及んだ。王は優劣を見極めようと「馬学士との論義は必ず屈服させよ、空しく主客のみを立てるな」と衆に語ると、諸家の学者が次々に問いを立てたが、樞は次第にこれを剖判しその宗旨を開き、枝分派別を転変させて窮まりなく答え、論者は拱黙して聴くのみであった。綸はこれを大いに嘉した。まもなく侯景の乱に遭い、綸が兵を挙げて台に援けに向かう際、書二万巻を樞に託し、樞は志を尽くしてほぼこれを読み尽くし「貴爵位を巣由(許由の類)は桎梏とし、山林を愛する者は伊呂を管庫とする、名実を束ねれば芻芥、柱下(老子)の言を清虚に翫べば糠粃、席上の説(儒学)に稽えても各々その好みに従うのみ、求志の士が塗を望んで息(やす)むのはどうして天の恵まぬところか、高尚のどこに山林の無聞を嘆く理由があろうか」と喟然と歎じ、茅山に隠れる志を持った。
  • 陳天嘉元年(560年)、文帝が度支尚書に徴したが辞して応じなかった。樞の親故はみな京口に住み、秋冬の頃には時に訪れた。鄱陽王が南徐州刺史となりその高尚を欽んで招こうとしても叶わず、卑辞厚意で使いを遣わすと固辞したが門人の勧めによりやむを得ず赴いた。王は室を別に築いて処させたが、樞はその崇麗を嫌い竹林の間に自ら茅茨を営んで住んだ。王公の餽餉には十分の一のみ受けるのを常とした。樞は少くして乱離に遭い、居所には盗賊が入らず依託する者は常に数百家に及んだ。目は闇中の物を見通すほど精し、庭樹に一対の白燕が巣を作り馴れ狎れ欄廡に至り、春に来て秋に去ることほぼ三十年に及んだ。太建十三年(581年)卒した。『道覚論』を撰し世に行われた。

史論

  • 独往の人はみな偏介の性を稟け、志を摧き道を屈して誉れを借り通じることができない。もし信任される主に遇い時運に恵まれれば、江海に情を放ち丘樊に逸をとることはなく、已むを得ずそうしているに過ぎない。巌壑は閑遠、水石は清華で、崇門・高城の栄えの中にも壌を蓄え泉を開き林澤に似せるものだが、それは知る、松山桂渚こそが素の玩びであって、碧澗清潭こそが真に麗しい眺めとなり、東都に冠を挂けることに何の難があろうか、ということである。