南史卷七十六 列傳第六十六 陶弘景

出自と行状(附・釈宝誌)

  • 陶弘景、字は通明、丹陽秣陵の人。祖の隆は王府参軍、父の貞は孝昌令。弘景の母郝氏は両人の天人が香炉を執って現れる夢を見て身ごもり、宋孝建三年丙申の歳、夏至の日に生まれた。幼くして異操があり四五歳から荻を筆にして灰に書を学び、十歳で葛洪『神仙伝』を得て昼夜研究し養生の志を抱いた。父が妾に害されたことから終身娶らなかった。長じて身長七尺七寸、神儀明秀、目は疎眉細形で額が聳え耳孔にそれぞれ十余の毛が二寸ほど伸び、右膝に数十の黒子が七星の文様をなしていた。万余巻を読み一事も知らぬことを深く恥じ、琴・棋・草隷をよくした。未だ弱冠にして斉高帝が丞相の時に諸王侍読に引かれ奉朝請を除されたが、朱門にありながら影を閉ざし外物に交わらず披閲を務め、朝儀故事を多く取り集めた。家貧しく宰県を求めたが叶わず、永明十年(492年)朝服を脱ぎ神武門に掛け上表して禄を辞し、詔で許され束帛を賜り、所在に月々茯苓五斤・白蜜二升を給わせた。公卿が征虜亭で送別する際、車馬が塡咽し「宋斉以来これほどのことはない」と評された。
  • 句容の句曲山に至り「この山下は第八洞宮、名を金陵華陽の天という、周回百五十里、昔漢の咸陽三茅君が得道してこの山を掌ったので茅山と称する」と語り、山中に館を立て自ら「華陽陶隠居」と号し、書札にもその名を用いた。東陽の孫游嶽に符図経法を受け名山を歴訪して仙薬を尋ね、身は軽捷で山水を愛し澗谷を経るごとに坐臥して吟詠し盤桓を止められなかった。門人に「朱門広厦の華楽は識っているが往きたいとは思わない、高巌大澤を望むとここに留まりたく思う、しかも永明中に禄を求めても叶わなかったのはこの仙相ゆえだろう」と語った。沈約が東陽郡守としてその志節を高く評価し書を送って招いたが至らなかった。弘景は人柄が円通謙謹で、出処の間、心は明鏡のごとく物に対し明快で言に煩雑がなく、非は自らすぐ気づいた。永元初、三層楼を築き弘景は上に、弟子は中に住み、賓客は下で応対して外物と絶ったが、一人の家僮だけが上まで至ることができた。もとは馬に乗り弓を善くしたが晩年はやめ、笙を吹くのを聴くのを好み、庭院にはすべて松を植え響きを楽しみとした。時に泉石に独り遊ぶ姿を仙人と見る者もあった。
  • 著述を好み奇異を尚び、光景を愛惜して老いてなお篤く、陰陽五行・風角星算・山川地理・方円産物・医術本草・帝代年暦に明るく、算術で漢熹平三年丁丑の冬至の推算誤差を三十八刻と割り出し、また歴代が先妣・母后を地祗に配することを理に適うとする独自説を唱え、碩学通儒も気づかぬところであった。また渾天象を高さ三尺ほどに作り、地を中央に置いて天を機械で回転させ天の運行と一致させた。「修道に必要で史官の用ではない」と語り、張良の生き方を深く慕い「古賢に比肩する者はいない」と評した。斉末、謡に「水丑木を梁と為す」の語があり、梁の武帝の兵が新林に至ると弟子戴猛之を遣わし表を奉らせ、禅代の議を聞くと弘景は図讖の数箇所を「梁」の字に成る形と解して弟子に進上させた。武帝は早くから交わりがあり、即位後は恩礼が篤く書問が絶えなかった。弘景は神符秘訣を得て神丹を成せると考えたが薬物に乏しく、帝が黄金・朱砂・曾青・雄黄を給うと飛丹を合わせ色は霜雪のごとくなり、帝が服して効験があるとますます重んじられた。
  • 弘景の書は焼香虔受された。帝が造らせた年暦は己巳の歳に朱点が加えられていたが、それは実に太清三年(549年)であった。帝が手詔で招き鹿皮巾を賜り屡々礼聘したが出仕せず、代わりに二頭の牛を描き、一頭は水草の間に放し、一頭は金の籠頭を付けられ縄で杖に駆られる図を送ったところ、武帝は笑って「この人は何でもする、曳尾の亀に倣いたいのだろう、致すべき道理があろうか」と評した。国家の吉凶征討の大事は必ず前もって諮問し月中数信に及び、時人は「山中宰相」と呼んだ。二宮及び公王貴要の参候や贈遺は絶えなかったが多くを受けず、留めたものは功徳に充てた。天監四年(505年)積金東澗に移居し、辟穀導引の法をもって隠処すること四十余年、年八十を過ぎてなお壮容を保った。仙書に「眼方の者は寿千歳」とあり、弘景は末年、一眼が方形になったこともあった。かつて仏の菩提記を授かる夢を見「勝力菩薩」と名づけられたとされ、鄮県阿育王塔に詣で自ら五大戒を受けた。簡文帝が南徐州にあった際、その風素を欽んで葛巾のまま接見し数日談論した。
  • 天監中、丹(薬)を武帝に献じ、中大通初にも「善勝」「成勝」の二丹を献じて佳寶とされた。病なく自ら逝去を知り、日を予知して告逝詩を作った。大同二年(536年)卒、享年八十五、顔色変わらず屈伸は常のごとく、香気が数日山に満ちた。遺令で沐浴・施牀を省き、地に両重の席を敷き、旧衣に生裓裙を重ね臂衣・靺冠巾・法服を纏わせ、左肘に鈴、右肘に薬鈴を付け、符を左腋下に佩び腰を巡らせて前で結び、釵符を髻に付け、袈裟で衾と首足を覆うよう命じ、明器には車馬・道人・道士を左右に配し、百日夜は灯を絶やさず朝は香火を絶やさぬよう定め、弟子はこれに従った。詔で太中大夫を贈り「貞白先生」と諡した。弘景は術数に妙を得て梁の祚の覆没を予見し、詩に「夷甫(王衍)は散誕に任じ、平叔(何晏)は空を論じて坐す、いかで昭陽殿がついに単于の宮となろうか」の意を予言する「単于宮詩」を密かに篋に蔵していたが、大同末に人士が玄理を競い武備を怠らぬ中、後に侯景が纂奪すると果たして昭陽殿にいたという。弘景の母は青龍が尾なくして自ら昇天する夢を見ており、弘景も果たして妻なく子がなく、従兄の子松喬が嗣いだ。著書は『学苑』百巻、『孝経』『論語集注』『帝代年歴』『本草集注』『効験方』『肘後百一方』『古今州郡記』『図像集要』『玉匱記』『七曜新旧術疏』『占候合丹法式』など、多くが秘密として伝わらず、未完のものも十部あり弟子のみが得た。
  • 時に沙門釈宝誌という者がいた。出自は知られず、宋太始中に鍾山に出入りし都邑を往来する姿が見られ、すでに五六十歳であった。斉宋の交に霊跡が現れ始め、髪を被り徒跣で語黙は常人と違い、あるいは錦袍で凡俗の飲食をともにし、鏡・銅剪刀・鑷子を杖に挂けて負い歩いた。酒肴を求めたり日を跨いで食を絶ったりし、未兆を予言し他心を識り、一日のうちに分身して遠近に赴くこともあった。斉武帝はその惑衆を怒って建康の獄に収めたが、翌日には遊行する姿が見られ、検校すると獄中にいた。その夜、獄吏に「門外に二つの輿と食があり金鉢に飯が盛られている、取りなさい」と告げると、果たして文恵太子と竟陵王子良からの供養であった。県令呂文顕が武帝に啓すると、帝は華林園に迎え入れた。しばらくして三布帽を重ねて被った由来も分からぬまま、まもなく武帝が崩じ、文恵太子・豫章文献王も相継いで薨じ、斉もその季(末期)に至った。
  • 靈味寺の沙門釈宝亮が納被を贈ろうとして言い出す前に、宝誌が来て被を牽いて去った。蔡仲熊が仕官の行く末を問うと答えず、ただ杖頭の縄を解いて投げただけであった。仲熊が尚書左丞まで至って初めてその言の験を知った。永明中、東宮後堂に住み平旦に門を出入りしたが、末年「門上に血の汚れあり」と告げて衣を褰げ走り去り、鬱林王が殺害された際、果たして犢車で屍を出したのがその門であったという。故閹人徐龍駒の宅に舎して帝の頸血が門限に流れたのもここであった。梁武帝は特に深く敬事し、年祚の遠近を問うと「元嘉、元嘉」とだけ答え、帝は喜んで宋文帝の享祚の倍と解した。剃髪していながら常に下裙帽・納袍を冠り、俗に「誌公」と呼ばれ、好んで讖記(誌公符)を作った。高麗はこれを聞いて使いを遣わし緜帽を供養した。天監十三年(514年)卒す間際、寺の金剛像を戸外に移させ「菩薩まさに去らんとす」と告げ、十日を経ず病なく終わった。かつて琅邪の王筠が荘厳寺に至った際、宝誌はこれと交言し歓飲して没するまで交わり、王筠に碑文を命じたのも先覚であったという。