南史卷七十六 列傳第六十六 徐伯珍

出自と行状(附・婁幼瑜)

  • 徐伯珍、字は文楚、東陽太末の人。祖父はいずれも郡掾史。伯珍は幼くして孤貧、紙がなく竹箭や若葉・甘蕉、地面に書を習った。ある時山水が暴れ宅舎村鄰が奔走する中でも、伯珍は牀を積み重ねて座り誦書を止めなかった。叔父の璠之は顔延之と友善で、蒙山に精舎を構えて講授すると伯珍は従学し十年で経史を究めた。学徒の多くが伯珍を頼った。太守琅邪の王曇生や呉郡の張淹が礼辟を加えても応召後すぐ退くこと十二度に及んだ。徴士沈儼は膝を交えて論談し素交とし、呉郡の顧歓が尚書の疑義を摘出すると伯珍は条理をもって答え、儒者はこれに宗った。釈氏・老莊にも通じ道術も明らめ、旱の年に伯珍が筮すると期のごとく雨が降った。挙動に礼あり、曲がった木の下でも避けて通った。早くに妻を喪い後年再婚せず自ら曾参に比した。宅の南九里に高山があり班固がこれを九巌山と呼び、後漢の龍丘萇が隠処とした地で、龍鬚檉柏が多く五彩に彩られ「婦人巌」と呼ばれた。二年後、伯珍がここに移り住むと階戸の間の木がみな連理を生じ、門前の梓樹は一年で合抱の太さとなり、館東の石壁に夜赤光が現れて消え、白雀の一対が戸牖に棲んだ。論者はこれを隠徳の感応とした。刺史豫章王が議曹従事に招いたが応じず、家は貧しく兄弟四人がともに白首(老年)で対座し、人々は「四皓」と呼んだ。建武四年(497年)享年八十四で卒し、受業生は凡そ千余人に及んだ。同郡の婁幼瑜、字は季亦も生徒を集め教授し徴辟に応じず、臨川王暎に賞異され「礼据拾」三十巻を著した。