南史卷七十六 列傳第六十六 呉苞

出自と行状(附・趙僧巌、蔡薈、孔嗣之)

  • 呉苞、字は天蓋、一字は懐徳、濮陽鄄城の人。儒学に通じ三礼・老莊をよくした。宋太始中、江を渡って生徒を集め教学し、黄葛巾を冠り竹麈尾を持ち蔬食で二十余年を過ごした。劉瓛とともに褚彦回の宅で講授し、瓛が礼を講じ苞が論語・孝経を講じ、諸生は朝は瓛を晩は苞を聴いた。斉隆昌元年、太学博士に徴されたが応じず、始安王遙光と江祏・徐孝嗣が共に鍾山下に館を立て教授させ、朝士の多くが訪れた。劉瓛以後、聚徒講授を続けたのは苞ただ一人であり、寿を全うした。
  • 当時、趙僧巌・蔡薈が景行を持ち苞の人柄を慕った。僧巌は北海の人で寥廓として常人には測れず、青州の刺史劉善明と友善であったが、善明が秀才に挙げようとすると驚いて拂衣して去り、後に沙門となって山谷に栖んだ。常に一壺を携え、ある夕「今夜死ぬ」と弟子に告げ「壺中の大銭千枚は九泉の路を通す料、蝋燭一挺は七尺の屍を照らす料」と語り、夜に没した。人々はその予知を「知命」と評した。蔡薈、字は休明、陳留の人。清抗にして俗人と交わらず、李撝が江斅に「安貧清白、夷にして緇まず、白と称すべきは蔡休明のような人だ」と語った。
  • また魯国の孔嗣之、字は敬伯は、宋の代に斉高帝とともに中書舎人となったが、どちらも本望ではなかった。廬江郡守を退官後は鍾山に隠居し、朝廷は太中大夫に任じたが卒した。