出自と行状
- 周續之、字は道祖、鴈門広武の人。祖先は江を渡り豫章建昌県に居した。八歳で母を喪い成人以上に哀戚し、兄に父の如く仕えた。豫章太守范寧が郡に学を立て生徒を招くと續之は十二歳で入門し数年で五経五緯を通じ「十経」と号され、同門で「顔子」と称された。その後閑居して老易を読み、廬山に入って釈慧遠に事えた。時に彭城の劉遺民も廬山に隠れ、陶淵明(陶潜)も徴命に応じなかったため、この三人を「尋陽三隠」と呼んだ。劉毅が姑孰を鎮めるにあたり撫軍参軍に、また太学博士に召されたが応じなかった。江州刺史からの招請には応じ、嵇康の「高士伝」に注を付し出処の美を論じた。宋の武帝が北討の折、世子の守りとして京にあった續之を安楽寺に迎え礼記を講じさせたが月余りで山に戻った。江州刺史劉柳の推薦で太尉掾に辟されたが応じず、武帝の北伐帰還時にも厚く礼賜されたが再び南に帰った。武帝践阼後、東郭外に開館させ生徒を集め、自ら幸して諸生に礼記の「傲れば長ずべからず」「我と九齢」などの義を問うと、續之は精奥に答え「名通」と称された。風痺を患い講義に堪えず鍾山に移り、景平元年(423年)卒した。毛詩の六義や礼論に通じ公羊伝に注した。子はなく、兄子の景遠が續之の風を受け継いだ。