出自と行状
- 孔淳之、字は彦深、魯の人。祖の惔は尚書祠部郎、父の粲は秘書監で徴されても応じなかった。淳之も高尚な志を持ち墳籍を愛好し、太原の王恭に称えられた。会稽剡県に住み山水を好み、遊べば必ずその幽峻を窮め旬日帰るのを忘れることもあった。山で沙門釈法崇に遇い留まって三年を過ごし、法崇は「人外を思うこと三十年、傾蓋(初対面)に等しいのに老いが迫るのを忘れた」と歎じた。淳之は姓名も告げず去った。著作佐郎・太尉参軍に召されたが応じず、喪に至孝を尽くし墓側に廬した。徴士戴顒・王弘之・王敬弘らと人外の游をなし、さらに婚姻を結び、敬弘は娘を淳之の子尚に嫁がせた。烏羊を車の轅に繋ぎ壺を提げて礼とし、農夫田父の礼に過ぎぬと笑って答えた。会稽太守謝方明が強く招いたが「潜游者は水を識らず巣栖者は林を弁えぬ、飛沈の至る所、その主を問うことはない」と応じなかった。元嘉初、散騎侍郎に再徴されると上虞県界に逃れ家人にも所在を知らせなかった。弟の黙之が広州刺史として上京する際、司徒王弘が淳之を招いて冶城で会わせようとしたが、その日のうちに東帰して顧みなかった。元嘉七年(430年)卒した。黙之は儒学に通じ『穀梁春秋』に注し、その子熙先の事は范曄伝にみえる。