暦法と機械の天才
- 祖沖之、字は文遠、范陽遒の人。曽祖祖台之は晋の侍中、祖父祖昌は宋の大匠卿、父祖朔之は奉朝請。沖之は古を稽え機知に富み、宋孝武帝に華林学省に直させられ宅・車服を賜り起家した。南徐州従事・公府参軍を経て、元嘉中(424-453年)用いられていた何承天の暦法(古の十一家の暦より精密とされた)をなお粗いとして新法を作り上表したが、孝武帝が朝士の暦算に詳しい者に論駁させても屈することなく、帝の崩御を経て施行された。婁県令・謁者僕射に至った。宋武帝が関中平定の際に得た姚興の指南車は外形のみで機構がなく、常に人が中で操作していたが、昇明中(477-479年)斉高帝の輔政期、沖之に古法を修めさせ、銅の機構を改造し円転して自在に方向を示す仕組みを作り、馬鈞以来なかった水準に達した。当時北人の索馭驎という者も指南車を作れると称し、高帝は沖之と競わせたが差が大きく索の作は焼却された。晋の杜預が欹器を作ろうとして三度失敗した故事があったが、永明中(483-493年)竟陵王子良が古を好み沖之に欹器を作らせたところ周廟の物と違わぬ出来であった。文恵太子は東宮にあって沖之の暦法を武帝に上奏させ施行させようとしたが太子はまもなく薨じ、暦法は再び棚上げされ沖之は長水校尉に転じた。沖之は「安辺論」を著し屯田による農業振興を説いたが、建武中(494-498年)明帝は沖之に四方を巡らせて利民事業を興させようとしたが軍事が続き実現しなかった。鍾律や博塞(賭博の一種)にも通じ対抗できる者がなく、諸葛亮の木牛流馬にならい風水に頼らず機構だけで自動する器を作った。また千里舟を新亭江で試し一日百余里を進んだ。楽游苑に水碓と磨を設け武帝が自ら見学し、算術にも特に優れた。永元2年(500年)72歳で没した。易・老荘の義釈、論語・孝経注、九章算術の造綴述など数十篇を著した。子の暅之。
- 暅之、字は景爍、若くして家業を継ぎ精微を究め巧思に優れ般倕(伝説の名工)にも劣らず、精思に没頭すると雷が鳴っても気づかないほどであった。あるとき僕射徐勉に頭からぶつかったが勉が呼んでようやく気づいたという。父が改めた何承天暦は未だ施行されていなかったが、梁の天監初年(502年以降)暅之がこれを再修正し施行された。太府卿に至った。
- 暅之の子祖皓は志節を持ち文武の才略を備え、若くして家業を継ぎ算暦にも通じた。大同中(535-546年)江都令、のち広陵太守を拝したが、侯景が台城を陥落させると皓は城中で殺されそうになり江西へ逃げ、百姓は彼の遺恵を感じて匿った。広陵の来嶷が「逆賊が天を滔らし王室が燃えている、義士が発憤し志士が身を捧げる時、府君は世々恩を受けながら賊に容れられず草間に逃げている、知る者は少なくない、危亡が甚だしい。董紹先は景の腹心とはいえ軽々しく謀もない、この州を新たに得たばかりで人心も付いていない、襲って殺せば一人の壮士の任にすぎない。今、義勇を糾合すれば二三百人はすぐ集まる、府君を奉戴して兇逆を除けば遠近の義徒が馳せ参じ、成功すれば桓文(斉桓公・晋文公)の勲を立てられよう、天が未だ禍を悔いていなければ、百代の後もなお梁室の忠臣として名を残せよう」と説得すると、皓は「私の望むところだ、死すとも本望」と答え、勇士耿光ら百余人で董紹先を襲い殺した。景の兖州刺史であった紹先の後、前太子舎人蕭勔を刺史に推戴し東魏に援を求めて景討伐の檄を各地に発したが、景は驚いて侯子鑑らに攻めさせ城は陥落、皓は捕らえられ縛られたまま矢を全身に射られ、その後車裂きにされ、城中の老若は皆生き埋めにされて射殺された。来嶷、字は徳山、若くして気節に優れ文武の才を兼ね、皓の義挙に加わり邵陵王の承制で歩兵校尉・秦郡太守・永寧県侯に封ぜられたが、皓の敗死とともに兄弟子姪16人が殺害された。子の来法敏は逃れ陳に仕え海陵令となった。