斉書編纂と豫章熊襄・呉邁逺・道鸞
- 檀超、字は悦祖、高平金郷の人。祖父檀嶷之は宋の南琅邪太守、父檀道彪は正員郎。超は若くして文学を好み放縦気ままで、州西曹に起家した際、蕭恵開が別駕として上位にあったが超は対等な礼を主張し「私とあなたはともに国家の外戚出身、爵位だけで人に高慢になるほどのことか」と述べたが、蕭恵開の祖姑(長沙景王妃)は超の祖姑でもあったため、恵開は逆に感心して刎頸の交わりを結んだ。国子博士・兼左丞となり酒好きで晋の郗超になぞらえ「高平に二人の超がいる」と自称し「私の方が優れている」とも語った。斉高帝に寵愛され司徒右長史となった。建元2年(480年)史官が置かれると超は驃騎記室江淹とともに史職を掌り、条例を立て開元紀号や宋の年号を用いず封爵の詳細を本伝に記し年表を作らないなど独自の体例を制定、また十志を著したが左僕射王儉と多く対立し編纂は完成せず、交州に左遷される途中で殺された。史書は江淹が引き継いで完成させたが完備には至らなかった。当時、豫章の熊襄は斉典を著し十代前から尚書堯典を虞書と呼ぶ例に倣い「河洛金匱」と名付けた。また呉邁逺という詩人は好んで詩を作り、宋明帝が召見して「この人は絶句の他は何もない」と評した。邁逺は自惚れが強く他人を蔑み、得意の詩句ができると地に投げつけて「曹子建(曹植)が何ほどのものか」と叫んだと言われる。超はこれを聞いて笑い「昔、劉季緒(劉表の子)は自分に才がないのに人の文章にケチをつけた、あの人こそ道を語るに足りないというのに、邁逺は何様のつもりか」と評した。超の叔父道鸞、字は万安、国子博士・永嘉太守に至り、文学に通じ「続晋陽秋」20巻を著した。