序―文学伝の趣旨
- 易に「人文を観て天下を化成する」とあり、孔子も「煥として文章あり」と言った。漢以来、文人は代々輩出し、大は憲章典誥を著し、小は性情を述べるにとどまるが、経礼楽を通し国家を輔け古今を貫いて美悪を述べるのは文にほかならない。中原の混乱で南渡した後も文人は絶えず、梁代にはその流れがいよいよ盛んになった。時の君主(梁武帝)が儒雅を好み文章を篤く愛したため才士がこぞって集まり、帝は行幸のたびに群臣に詩を賦させ優れた作には金帛を賜ったため、士大夫はみな自ら励んだ。陳に至っては乱離の後を受け、奨励はしても往時の隆盛には及ばなかった。詩経に「人の亡ぶや邦国も疲弊す」とあるが、金陵の命運が尽きたのがその三百年を待たずして早まったのもこのためかもしれない。宋史には文学伝がなく、斉梁にはこれがあるので、本篇ではこれに倣い集めて記す。
丘遅・丘仲孚
- 丘靈鞠、呉興烏程の人。祖父丘系は秘書監、父丘道真は護軍長史。靈鞠は若くして学を好み文をよくした。州辟従事として領軍沈演之を訪ねると、演之は「昔私が州の官吏として領軍謝晦を訪ねたのと同じだ、そなたも将来こうなるだろう」と言った。累進して員外郎となり、宋孝武帝の殷貴妃が没した際に献じた挽歌の「雲横広階闇、霜深高殿寒」の句を帝が絶賛した。烏程令となったが不遇で、泰始初年(465年頃)事件に連座し数年間禁錮された。褚彦回が呉興太守となった際「この郡の才士は丘靈鞠と沈勃のみ」と評し彼を推挙した。明帝が大駕南討記を著させ、しばらくして太尉参軍となった。昇明中(477-479年)正員郎兼中書郎となり、斉の高帝が禅譲を進める際、詔策の作成に参与した。建元元年(479年)中書郎に転じ東宮の文書を掌った。かつて東に帰る際、司徒褚彦回を訪ねると彦回は足の病を理由に立たなかったが、靈鞠は「足の病も大事です、公は一代の重臣なのに国を覆すようなことがあってはなりません」と直言し、形式を気にせず戯言を発するのを常とした。国史の編纂も掌り、武帝の即位で通直常侍となり東観祭酒を兼ね「終身祭酒でも構わない」と語った。永明2年(484年)驍騎将軍を領したが武官職を喜ばず「東に帰って顧栄の墓を掘り返したい、江南の地は数千里も士子の風流が生まれた地なのに顧栄が北人らを引き入れて我らの道を妨げたのは万死に値する」と語るほど北人を嫌った。酒を好み人物評を辛辣に行い、沈淵の座で王儉の詩を見て淵が「王令(王儉)の文章は大いに進んだ」と言うと「私が進む前と比べてどうか」と応じたと伝わり、この言葉は王儉にも届いた。靈鞠は宋代には文名が高かったが斉に入って衰え、身なりを構わず家業も顧みなかった。王儉は「丘公は仕官も進まず才も衰えた」と評した。長沙王車騎長史で没し、「江左文章録」を著し大興から元熙までの序を付し文集を世に残した。
- 子の丘遅、字は希範、8歳で文章をよくし靈鞠は「気骨が私に似ている」と評した。黄門郎謝超宗・徴士何点も彼を高く評価した。斉で秀才に挙げられ殿中郎に累進、梁武帝の建鄴平定に際し驃騎主簿として招かれ厚遇された。梁王への勧進や特殊な礼儀の文章はすべて丘遅の手による。即位後は中書郎・待詔文徳殿に進み、帝の連珠詩に群臣数十人が唱和した際、丘遅の作が最も優れていた。事件で免職の後、責躬詩を献じ帝は優しい辞で答えた。のち永嘉太守として職務が振るわず糾弾されたが帝はその才を惜しんで上奏を握りつぶした。天監4年(505年)中軍将軍臨川王宏の北侵に諮議参軍・領記室として従い、当時北に投降していた陳伯之に書を送って降伏を促し成功させた。のち中書侍郎・司空従事中郎で没した。辞采が華麗で、鍾嶸の詩評には「范雲は婉転清便で流風回雪のよう、丘遅は点綴映媚で落花依草のよう、文通(江淹)には及ばないが敬子(丘)には勝る」と評された。
- 從孫(甥孫)の丘仲孚、字は公信、若くして学を好み夜中の鐘が鳴るまで読書を続け、靈鞠はこれを「千里の駒」と称した。斉の永明初年、国子生として王儉に「東南の美、また丘生に見る」と評された。高第で挙げられたが調任がなく郷里に帰り、家が貧しいため賊の一味となり三呉を劫掠する計を立てたこともあった。聡明で計略に富み、賊たちも彼を畏服し行動を漏らさなかった。于湖令として能吏の誉を得、太守呂文顕(当時の寵臣)が属県を侮ることが多かったが仲孚だけは屈しなかった。明帝の即位で曲阿令となり、会稽太守王敬則の反乱で軍が朝廷の不備をついて曲阿に迫った際、仲孚は長岡埭を掘り水路を切って敵の進路を阻み、案の定敬則の軍は水路が涸れて進めなくなり、そのまま敗れた。この防守の功で山陰令に転じ「二傅・沈・劉に及ばずとも丘一人には及ばない」との民謡が生まれるほど声望を得た(傅琰父子・沈憲・劉玄明ら歴代山陰の能吏を凌いだ)。斉末の政治混乱で贓賄の廉で告発されそうになり都に逃げ帰り赦免された。梁武帝の即位で再び山陰令となり、繁雑な事務をよく処理し人心を得て「神明」政治で天下第一と評された。衛尉卿として厚遇され、双闕の造営に大匠を領した。豫章内史として清節を励んだが没し、喪が豫章から還る際、老幼が号泣して車を見送った。左丞として皇典20巻、南宮故事100巻、尚書具事雑儀を撰した。