北人の清廉
- 王洪軌、上谷の人。宋の太始年間(465-471年)魏が青州を陥落させた際、洪軌は別駕清河崔祖歓の娘を娶り、祖歓の娘の勧めで南に帰った。宋の桂陽王の乱の際は斉高帝の新亭鎮守に随行し自ら矢を防いだ。高帝が「私には盾がある、自分の身を守れ」と言うと「天下に洪軌がいなくてどうして構いましょう、蒼生が乱れようとする今、公に一日も欠けてはならないのです」と答え、高帝はこれを高く評価した。のち晋寿太守となったが贈収賄で州に糾弾され恐れて建鄴へ逃げ、高帝の輔政の際に腹心として登用され、建武初年(494年)青冀二州刺史となった。晋寿での賄賂事件を悔い、清節に励んだ。以前、青州は魚塩の産物に恵まれていたが、強引に百姓の麦田を借りて紅花を植えさせ、部下と利益を分けあう者が多かったが、洪軌は着任後これを一切禁じた。魏への侵攻を上奏し黄郭・塩倉などの数戍を得たが、後の戦いで敗れ死傷が甚だしく、深く自らを責めた。謝禄山の南で地を清め茵席を広げ三牲を殺して戦死者の魂を祭り、人々の名を呼びながら自ら酒を注いで慟哭し、それが元で病を発して没した。北人でありながら清廉であったため州人は「虜父使君」と呼び、その死を聞くとみな涙を流したという。
- 永明年間(483-493年)、江夏の李珪之、字は孔璋、尚書右丞・兼都水使者を歴任し清廉能吏として知られ、のち少府を兼ねて没した。