徐度
- 徐度は字を孝節といい、安陸の人である。若くして自由奔放で小節にこだわらず、長じては容姿が瑰偉で酒と博打を好み、いつも僮僕に酒屋を営ませていた。初め梁の始興内史蕭介に従い諸山洞を征討し驍勇で知られ、陳武帝が交阯にあった際に身を委ねた。侯景の乱で武帝が広州を平定し蔡路養を破り李遷仕を破った際、計画の多くは度から出た。
- 侯景平定後、それまでの戦功に対し広徳県侯に封ぜられた。武帝が朱方に鎮すると蘭陵太守を授けられ、武帝が衡陽献王を荆州に送る際、度はその部下を率いて随行した。江陵陥落後は間道を通り東へ帰り、武帝が杜龕討伐に出て敬帝を京口に迎えた際、度は宿衛を領し留府事を兼ねた。徐嗣徽・任約らの侵攻に武帝と敬帝が都に戻ると、賊はすでに石頭を占拠しており、度は冶城寺に軍を布いた。翌年、嗣徽らが再び斉の兵を引き入れると度は衆軍とともに北郊壇でこれを破り、功により郢州刺史・呉興太守を兼任した。
- 文帝即位後、侍中・中撫将軍・開府儀同三司に累進し爵を公に進め、天嘉元年、王琳平定の功により湘東郡公に改封。太尉侯瑱が湘州で薨じると度が代わって都督湘州刺史となり、任期満了で侍中・中軍大将軍に復した。文帝崩御に際し顧命に預かり甲仗五十人を殿省に入れることを許され、廃帝即位後、司空に進んだ。薨じ、太尉・諡忠粛を贈られ、太建四年、武帝の廟庭に配享された。子の敬成が嗣いだ。
敬成
- 敬成は幼くして聡慧で読書を好み、著作佐郎から出仕。永定元年、父度の部下を率い周文育・侯安都の王琳討伐に従軍し沌口で敗れ王琳に捕らえられたが、二年、文育・安都とともに帰還した。父度が呉郡太守となると敬成が郡事を監督、光大元年、巴州刺史、まもなく水軍を領し呉明徹の華晈平定に従軍した。
- 太建二年、父の喪により職を去るが、まもなく南豫州刺史として起用され湘東郡公を襲封。五年、呉興太守となり、都督呉明徹の北討に従い秦郡を出て、別に都督として金翅で欧陽から埭を溯り広陵を経由、斉人は皆城に籠って出ず、繁梁湖から淮に下り淮陰・山陽・塩城三郡を平定、さらに鬱州を陥とし壮武将軍に進号して朐山に鎮したが、軍中で科条の処罰と新附者の誅殺により免官となった。まもなく安州刺史・宿豫鎮となり卒した。諡は思。子の敞が嗣いだ。