南史卷六十六 列傳第五十六 侯安都

侯安都は字を成師といい、始興曲江の郡名門の出身。武勇に優れた将軍で、王僧辯討滅・侯景残党掃討・王琳討伐など陳建国期の主要な戦いで武功を重ね、文帝擁立の立役者ともなったが、功を恃んで驕慢となり、天嘉三年冬に謀反を疑われ処刑された。

年表(3件)
  • 天嘉三年舎人蔡景歴が謀反を密告し、文帝に不安を抱かせる
  • 天嘉四年江州刺史として都に呼び戻され捕らえられ、西省で死を賜る
  • 太建三年宣帝により陳集県侯を追封される

侯安都

  • 侯安都は字を成師といい、始興曲江の人である。郡の名門であった。父の捍は若くして州郡に仕え忠謹で称され、安都が貴顕となった後、光禄大夫・始興内史に至った。安都は隷書を能くし琴を弾き、書伝を渉猟して五言詩は清麗であり、騎射も善くしたため邑里で雄豪と目された。
  • 侯景の乱で兵甲三千を招集した。陳武帝が台城救援に赴くと安都はこれに従い蔡路養を攻め李遷仕を破り侯景を平定するなど戦功を重ね、富川県子に封ぜられ、武帝の京口鎮駐に従い蘭陵太守を除された。
  • 武帝が王僧辯襲撃を謀った際、安都のみと計画を練り、安都に水軍を率いて京口から石頭へ、武帝自身は江乗の羅落から向かい合流した。安都は石頭北岸から兵を上陸させ、僧辯は気づかなかった。石頭城の北は丘陵に接し険しくなかったため、安都は甲冑を着け長刀を帯び、兵に担がれて女垣内に投げ込まれ、続いて兵が突入。僧辯の臥室に迫り武帝の大軍も到着し、聴事の前で戦いとなった際、安都は内閣から出て前後から挟撃し、ついに僧辯を捕らえた。功により南徐州刺史を授けられた。
  • 武帝が杜龕討伐に出ると安都は台の留守を守った。徐嗣徽・任約らが斉軍を石頭に引き入れ闕下まで遊騎が至ると、安都は城門を閉じ弱を装い、城中で敵を見た者は斬ると命じた。夕方賊が石頭に引くと安都は夜のうちに防備を整え、翌朝賊騎が来るとこれを大破、賊は退いて台城に迫れなくなった。武帝の到着後は安都が水軍で中流を守り賊の糧運を断ち、秦郡を襲って嗣徽の柵を破りその家財と嗣徽秘蔵の琵琶・鷹を得て「昨日弟の住処で得た、いま返す」と送り届け、嗣徽らはこれに大いに恐れて和を求め、武帝は北への帰還を許した。
  • 嗣徽らの渡江後も斉の残軍が采石になお構え、安都はこれを攻めて多くを捕獲した。翌年春、詔で安都は梁山に鎮し斉に備えたが、徐嗣徽らが再び至湖に入ると武帝は安都を呼び戻し拒がせ、耕壇の南での戦いで安都は十二騎で敵陣に突入しこれを破り、斉の儀同乞伏無芳を捕らえ、斉将東方老を刺して落馬させたが、賊騎に救われ討ち漏らした。賊は蔣山を越えて北に退いた。
  • 安都は斉将王敬宝と龍尾で戦い、従弟の曉と軍主張纂が敵陣を突いて曉が負傷して落馬、纂は戦死したが、安都は馳せつけて曉を救い敵騎十二人を斬り纂の遺体を取り返した。武帝が幕府山で斉軍と戦った際、安都は白下から後方を横撃し大破し、功により侯に進爵、平南将軍・西江県公に改封された。
  • のち安都は水軍を督し豫州刺史周文育の蕭勃討伐を援けた。安都到着前に文育はすでに勃を斬りその将欧陽頠・傅泰らを捕らえていたが、余孝頃と勃の子孜は豫章の石頭に二城を分けて構え船艦を配し水を挟んで陣を張っていた。安都到着後、夜に銜枚(声を出さぬよう)して敵艦を焼き、文育の水軍と安都の歩騎が上陸して陣を結ぶと、孝頃が退路を断とうとしたため安都は柵を建て陣を進め、たびたび勝利を収め、孜はついに降伏、孝頃は新呉に逃れ子を人質に差し出して和を求めた。功により開府儀同三司を加えられた。
  • さらに武昌で周文育とともに王琳討伐に赴く際、王公以下が新林で餞別を送る中、安都は馬で橋を渡ろうとして人馬ともに水に落ち、また船の艫の井戸にも落ちたため不吉と見なされた。武昌に至ると琳の将樊猛は城を捨てて逃げ、文育も豫章から至ったが両将の統率が一致せず部下の争いから不和となり、郢州で琳の将潘純が城中から遠射したため安都は怒って郢州を囲んだが陥落前に王琳が弇口に至ったため、囲みを解いて沌口へ向かい風のため進めず、琳は東岸、官軍は西岸に構え数日の後合戦、安都らは敗れ、文育・徐敬成とともに琳に捕らえられ一本の鎖で艫の下に繋がれ、宦官王子晋の監視下に置かれた。
  • 琳が盆城の白水浦に至った際、安都らは甘言で子晋を篭絡し、子晋は小船を艫のそばに置き夜に安都・文育・敬成を乗せて岸に上げ、草むらを抜けて官軍に投じた。都に戻ると自ら罪を陳べ、詔により赦され官爵を復された。丹陽尹に転じ、南豫州刺史として周文育の余孝勱・王琳将曹慶・常衆愛討伐を継承。安都は宮亭湖から松門に出て衆愛の背後を突き、文育が熊曇朗に殺害されると安都は大艦を取り戻し、琳の将周炅・周協と南で遭遇し戦って破り炅・協・孝勱を捕らえ、弟の孝猷は部下四千家を率いて王琳に投じようとしたが炅の敗北を見て安都に降った。
  • 安都はさらに禽竒洲で曹慶・常衆愛らを破りその船艦を焼き、衆愛は廬山へ逃れ村人に殺され、残党もすべて平定された。軍が南皖に戻ったところで武帝が崩じ、安都は文帝とともに朝に戻ると群臣とともに文帝の即位を求めたが、文帝は謙譲して受けず、太后も衡陽王の存在を理由に令を渋り、群臣も決めかねていた。安都は「今、四方は未だ定まらぬ。何を遠慮する必要があろうか。臨川王(文帝)には功がある。天下は共に立つべきだ。今日の事、後で異を唱える者は斬る」と言い、剣を按じて殿に上り太后に璽を出させ、自ら文帝の髪を解いて喪次に導き、文帝は即位した。
  • 安都は司空に遷り南徐州刺史・扶を授けられた。王琳が柵口まで下り大軍が蕪湖に駐屯した際、侯瑱が大都督であったが指揮の多くは安都から出た。王琳が斉に入った後、安都は盆城に進んで琳の残党を討伐しすべて平定、さらに衡陽献王昌を迎える使命を受けた。昌が帰国しようとした際、文帝への書状の言葉が甚だ不遜であったため、文帝は不快に思い安都を召して「太子(昌)が来れば、私は別の藩に退かねばならぬだろう」と語ると、安都は「古来、天子が代わられた例があろうか。愚臣はその詔は奉じられない」と答え、自ら昌を迎え、中流でこれを殺害した。功により清逺郡公に進爵、これ以後、安都の威名は群臣の誰も及ばぬほどとなった。
  • 安都の父捍が始興内史のまま卒すると文帝は安都を呼び戻し喪に服させ、まもなく本官に復し捍に散騎常侍・金紫光禄大夫を、母を清逺国太夫人に追贈した。母を都へ迎えようとしたが母は郷里に留まることを望んだため、文帝は桂陽郡の汝城県を廬陽郡に改め衡州の始興・安逺二郡と合わせ三郡を東衡州とし、安都の従弟曉を刺史とした。安都の第三子祕は九歳で始興内史とされ郷里に留まり母を世話させ、安都は桂陽郡公に改封された。
  • 王琳敗北後、周軍が巴湘に入ると安都は詔により西方の防衛にあたり、留異が東陽に拠ると東征を命じられた。台軍は当初銭唐江を上る予定であったが、安都は会稽の諸暨から永康へ出た。異は大いに恐れ桃枝嶺の巌谷に籠り柵を結んで守った。安都は自ら戦い流矢を受けて足首まで血を流したが乗輿の上で軍を指揮する態度を変えなかった。山陇を利用して堰を作り、夏の水嵩を利用して船を堰内に引き入れ、楼船で異の城に匹敵する規模の攻撃をかけ拍で城を破壊、異は次子忠臣とともに脱出して晋安に逃げ、妻子は捕らえられ凱旋した。
  • 安都は侍中・征北大将軍を加えられ本鎮に戻り、吏人は表を奉って碑を立て安都の功績を頌えることを願い、詔で許された。王琳平定後、安都の勲功はさらに大きくなり、次第に驕慢となり文武の士騎を招き詩筆で優劣を競わせ賞賜を与えた。文士では褚玠・馬樞・陰鏗・張正見・徐伯陽・劉珊・祖孫登、武士では蕭摩訶・裴子烈らが賓客となり、邸内には常時千人ほどが集った。部下将帥が法を守らぬ者が多く、追及されると安都のもとに逃げ込んだ。文帝は性格が厳格で密かに不満を募らせた。
  • 安都は日に日に驕慢になり、表啓を封じた後に追加事項があると封を開けて自ら書き加え「また啓す」と称し、侍宴では酔って箕踞(あぐら)し傾いた姿勢を取ることもあった。楽游での禊飲の際、文帝に「私が臨川王であった頃と比べていかがですか」と尋ね、文帝が答えないと再三尋ねると、文帝は「これは天命ではあるが、あなたの力もあった」と答えた。宴後、安都は御堂に水飾を借りて妻妾を乗せ歓会を望み、文帝は渋々許したが不快であった。翌日安都は御座に座り賓客が群臣の位に立ち觴を挙げて上寿する場面もあった。重雲殿が火災に遭った際、安都は甲を帯びた将士を率いて殿内に入り、文帝はこれを深く嫌悪しひそかに備えを進めた。
  • 周廸の反乱に際し、朝廷内では安都が討伐を担うと目されていたが、文帝は呉明徹に討伐させ、しばしば台使を遣わして安都部下の逃亡者の検問を行った。安都は内心不安を抱いた。天嘉三年冬、安都は別駕周弘実を舎人蔡景歴に接近させ省中の事情を探らせたが、景歴はその様子を記録して奏上し、安都の謀反を訴えた。
  • 文帝は安都が召しに応じないことを恐れ、翌春、征南大将軍・江州刺史に任じて京口から都へ呼び戻すと、安都はその隊伍とともに石頭に入った。文帝は安都を嘉徳殿に招いて宴し、また部下将帥を尚書朝堂に集め、席上で安都を捕らえて西省に囚え、将帥も捕らえて馬仗をすべて奪った上で釈放し、景歴の告発文を朝廷に公表した。翌日、西省で安都に死を賜った。まもなく詔により妻子・家口は宥され、士の礼で葬られた。
  • かつて武帝が諸将と宴した際、杜僧明・周文育・侯安都が寿を祝し各々の功を語ると、武帝は「卿らは皆良将だが、それぞれ短所がある。杜公は志が大きいが見識が暗く、下には慣れ親しむが上には驕り、功を誇って拙さを収めようとしない。周侯は交わりを選ばず心を推し量って過ぎ、危険を顧みず防備を怠る。侯郎は驕り高ぶり満足を知らず、軽薄で自制がない。いずれも身を全うする道ではない」と語ったが、三人は皆その言葉通りの結末を迎えた。太建三年、宣帝は安都を陳集県侯に追封し、子の亶が嗣いだ。