南史卷六十六 列傳第五十六 周文育

周文育

  • 周文育は字を景徳といい、義興陽羨の人である。若くして孤貧で、もとは新安寿昌県に居り姓を項、名を猛奴といった。十一歳で泳ぎに巧みで数里を往来し、跳躍も六尺に達し、遊び仲間の中で並ぶ者がなかった。義興人の周薈が寿昌浦口の戍主として彼を見出し奇才と認め呼び寄せた。文育は「母は年老い家は貧しく兄弟姉は皆成長し賦役に苦しんでいる」と答えると、薈は哀れんで文育の家に赴き母に頼んで文育を養子とし、母もこれを承知した。薈の任期が終わり都へ戻った際、太子詹事周捨に名を求め、捨は「文育」の名と「景徳」の字を与えた。
  • 兄子の弘讓に書算を学ばせたが、弘讓が善書の蔡邕の勧学や古詩を与えても文育は顧みず「これを学んで富貴になれる者がいるものか。ただ大槊があればよい」と言い、弘讓はその気概に感じて騎射を教え、文育は大いに喜んだ。
  • 司州刺史陳慶之は薈と同郡で親しく、薈を前軍主に推挙。慶之は薈に五百人を率いさせ新蔡懸瓠で白水蛮を慰労させたが、蛮が薈を捕らえて魏に入ろうと謀り発覚、薈と文育がこれに抵抗した。賊は盛んで一日に数十合戦い、文育の前鋒は陣を陥れ勇猛は軍中随一であったが、薈は陣中で戦死し、文育はその屍を取り返し、賊も敢えて逼らなかった。夕方に双方引き上げ、文育は九か所の傷を負ったが傷が癒えると帰葬を願い出、慶之はその節義を壮とし厚く贈り物をして送った。
  • 葬儀を終えると盧安興が南江督護として文育を招き同行、南海令に累進した。安興の死後、文育は杜僧明とともに広州を攻めて陳武帝に敗れ、武帝はこれを赦した。のち監州王勱の長流として重用された。勱の交代の際、文育も共に南下しようとし大庾嶺で占い師に「北に下れば令長どまり、南に入れば公侯となる」と言われ、文育は「銭さえあれば公侯など望まない」と答えたが、占い師は「まもなく銀二千両を得るだろう」と告げ、その夜の宿で賭博をした賈人に勝ち銀二千両を得た。翌朝辞去する際、勱がその理由を尋ねると文育は事情を話し、勱は快くこれを許した。
  • 武帝は文育の帰還を喜び麾下の兵を分け与えた。武帝の侯景討伐では文育は杜僧明とともに前軍となり蘭裕を破り、歐陽頠を援けるなど功があった。武帝が南野で蔡路養を破った際、文育は路養に四方から囲まれ矢石が雨のように降る中、乗馬を失うも右手で戦い左手で鞍を解いて囲みを突破、杜僧明らと合流し大いに路養を破った。武帝は文育を府司馬に推挙した。
  • 李遷仕が大臯に拠り、部将杜平虜を灨石魚梁の築城に遣わすと、武帝は文育に攻撃を命じ平虜を敗走させ文育はその城を占拠した。遷仕は平虜敗北を聞き大臯に老弱を残し精兵を率いて文育を攻めたが、文育は防戦し武帝が杜僧明を援軍として遣わすと遷仕の水軍を破り、遷仕は大臯を通れず新淦へ逃れた。梁元帝は文育に義州刺史を授けた。
  • 遷仕が劉孝尚とともに義軍に抵抗しようとすると、武帝は文育・侯安都・杜僧明・徐度・杜稜に白口に築城させ拒がせ、文育がしばしば出撃してついに遷仕を捕らえた。武帝が南康を発つと文育に兵五千を与え江路を開通させ、侯景の将王伯醜が豫章に拠るとこれを撃退して城を占拠、功により東遷県侯に封じられた。武帝軍が白茅湾に至ると文育・杜僧明は常に軍鋒となり、姑熟で侯景の将侯子鑒を破った。侯景平定後、南移県侯に改封され散騎常侍に累進した。
  • 武帝が王僧辯を誅すると文育は衆軍を督して文帝と呉興で会し杜龕を破り、さらに長江を渡って会稽を襲い太守張彪を破りその郡城を得た。文帝が張彪に襲われた際、文育は城北の香巌寺にいて夜駆けつけ、彪の再攻撃にも苦戦の末勝利した。
  • 武帝が江州を拠点とする侯瑱の討伐を命じ、文育は南豫州刺史となり盆城を襲ったが陥落させられずにいたところ、徐嗣徽が斉人を蕪湖に引き入れたため文育は都に呼び戻された。嗣徽らは青墩から七磯まで艦を並べ帰路を断とうとしたが、文育は夜のうちに鼓譟して発進し嗣徽らは阻止できなかった。翌朝反撃した嗣徽の驍将鮑砰が孤艦で殿を務めると、文育は小舟でその艦に飛び込み斬り殺し牽引して帰還、賊は大いに驚愕し船を蕪湖に残し丹陽から歩軍を進めた。
  • 武帝が白城で嗣徽を拒んだ際、文育と合流して戦おうとするも逆風で武帝は「矢は逆風に向かない」と言ったが、文育は「事は急を要する、古法にこだわっている場合か」と槊を執って馬に乗り進み、風も転じて数百人を殺傷した。嗣徽らは莫府山に移営、文育もこれに対して陣を移し連戦して功をあげ、壽昌県公・鼓吹一部を賜るまでに進爵した。
  • 広州刺史蕭勃が嶺を越えて挙兵すると、文育は衆軍を督して討伐に赴いた。新呉洞主余孝頃も蕭勃に呼応し弟の孝勱に郡城を守らせ、自らは豫章から石頭に拠った。蕭勃の子孜も兵を率いて孝頃と合流し、別将欧陽頠は苦竹灘に、傅泰は塶口城に陣取って官軍を拒んだ。官軍は船が不足していたが、孝頃の舴艋三百艘・艦百余隻が上牢にあるのを聞き、文育は軍主焦僧度・羊東に命じてこれを奇襲し悉く奪って豫章に柵を立てた。
  • 食糧が尽きて撤退を諸将が求めるも文育は許さず、密使を通じて周廸に書を送り「兄弟の契りを結ぼう」と利害を説いた。廸は喜び糧を送ることを約束した。文育は老小を分けて旧船で退却する様子を見せ豫章の柵を焼いて偽って退いた。孝頃は喜んで油断し、文育は間道を通り一昼夜で羋韶に至った。羋韶の上流には欧陽頠・蕭勃、下流には傅泰・余孝頃があり、文育はその中間に城を築き士を饗した。賊は大いに驚き、欧陽頠は泥溪に退いて自守した。文育は厳威将軍周鉄虎・長史陸山才に頠を襲わせ捕らえ、頠と共に舟に乗って宴を開き傅泰の城下を巡視した後攻めて陥落させた。
  • 蕭勃は南康でこれを聞き衆は震え上がり、将の譚世逺が勃を斬って降ろうとしたが害され、世逺の軍主夏侯明徹が勃の首を持って降った。蕭孜・余孝頃はなお石頭に拠り、武帝は侯安都に文育を助けさせ攻めさせると孜は降り、孝頃は新呉へ退いた。広州平定後、文育は豫章に戻り功により開府儀同三司を授かった。
  • 王琳が上流に拠ると詔で侯安都が西道都督、文育が南道都督となり武昌で会し琳と沌口で戦い敗れて捕らえられたが、のち逃げ帰り罪を問われなかった。周廸が余孝頃を破ると、孝頃の子公颺と弟孝勱がなお旧柵に拠り南土を騒がせたため、武帝は再び文育・周廸・黄法氍らに討伐を命じ、豫章内史熊曇朗も加わった。文育は呉明徹を水軍とし周廸の運糧を助け、自ら象牙江に入り金口に築城した。公颺は偽って降伏し文育を捕らえようとしたが発覚し文育はこれを捕らえて都に送った。その部曲を諸軍に分属させて舟を捨て歩軍とし三陂に進んだ。
  • 王琳が将曹慶を遣わして孝勱を救おうとし、常衆愛を分けて文育を拒ませつつ自ら周廸・呉明徹の軍を攻めた。廸らは敗れ文育は金口に退いた。熊曇朗は文育の劣勢に乗じて衆愛に呼応し文育を害そうと謀り、監軍孫白象がこれを察知して先手を打つよう勧めたが、文育は「不可だ。我が軍は寡兵の客軍だ。夜襲して曇朗を討てば人心が驚き離散してしまう。むしろ心を推し量って撫すべきだ」と応じなかった。周廸が敗れて船を捨て逃げた行方が不明になっていたが、廸から書が届くと文育は喜び曇朗に示したところ、曇朗はその場で文育を殺害した。
  • 武帝はこれを聞き即日哀を挙げ、侍中・司空を追贈し諡は忠愍。文育が三陂に拠っていた頃、流星が落ちて雷のような音を立て地面が一丈ほど陥没し中に炭の破片が数斗あったこと、また軍市で子供の泣き声がしたと騒がれ土を掘ると三尺の棺が出てきたことがあり、文育はこれを不吉として嫌ったが、まもなく廸の敗北の後に殺害された。天嘉二年、詔により武帝廟庭に配享され、子の宝安が嗣いだ。文育の族兄景曜は文育の縁で新安太守にまで至った。

寶安

  • 寶安は十余歳から騎射を習ったが、貴公子として驕慢で放縦、犬馬を好み衣食に贅を尽くした。文育が晋陵にあって征討に忙しく郡を顧みなかった頃、寶安に監郡を任せたが悪少年を集め、武帝はこれを憂いた。
  • 文育の西征失敗で王琳に捕らえられると、寶安は態度を改めて読書に励み士君子と交わり、文育の兵士たちを慰撫して威信を得た。文育が戻ると再び呉興太守に任じられ、文育が熊曇朗に殺害されると寶安は呼び戻され猛烈将軍としてその旧兵を統率し南討に赴いた。
  • 文帝は寶安を重用し、精鋭の兵を多く配し王琳平定にも功があった。周廸が熊曇朗を破った際、寶安は南に入りその余党を討伐、天嘉二年、再び呉興太守に任じられ壽昌県公を襲封した。三年、留異討伐では侯安都の前軍となり異を平定、給事黄門侍郎・衛尉卿を歴任、さらに左衛将軍・衛尉卿を兼ね卒した。諡は成。子の䂮が晋陵・定逺二郡の位を嗣いだ。