生涯
- 蘭欽、字は休明、中昌魏の人。幼くして果断で身が軽かった。宋末、父子雲に従い洛陽で市の駱駝を扱う仕事をし、子雲が南に帰った後、梁天監中に軍功で冀州刺史となる。欽は文徳主帥として南中五郡の反乱鎮圧に功を挙げ、謀略に長け勇決善戦、一日二百里を歩く勇武で兵の死力を得、安懐県男に封じられた。都督梁南秦二州刺史に累進し爵は侯に進み、梁漢平定後は智武将軍・都督衡州刺史に改授された。
- 赴任前に西魏が南鄭を包囲、梁州刺史杜懐珤の求めに応じ大破して斜谷まで追撃、魏の安定公が馬二千匹を贈り和を求めた(百日で二度魏軍を破り威名は隣国に轟いた)。散騎常侍を加えられたまま広州に赴任し俚帥陳文徹兄弟を破って禽獲、衡州刺史に至り平南将軍・曲江県公に進む。在州で恵政を布き吏人が碑を求めて許された。
- 後に広州刺史。前刺史新渝侯映之の死後、南安侯恬が権行州事となり真の刺史になろうとしていたが、欽の着任を聞くと厨人に毒を仕込ませ、欽と愛妾がともに死んだ。武帝は激怒し恬を檻車で拘束して爵土を削った。欽の子夏礼は侯景が歴陽に至った際、部曲を率いて迎撃し戦死した。
史論
- 陳伯之は軽狡な性であったが勇勁で身を立て、爵位を得たのには理由がある。喪乱平定後も去就常ならなかったが、ついに天寿を全うできたのは幸いというべきである。慶之は初め燕雀の交わりに過ぎなかったが、ついに鴻鵠の志を懐くに至り、一たび任用されるや伊洛の地まで長駆して堅陣を破り堅城を攻略した。南風競わず(南朝の劣勢)によって最後は傾覆に至ったが、その戦功は称賛に足る。蘭欽は先陣を切って戦い、位は虚しく受けたものではなかったが、終には鴆毒に遭った。これもまた運命というほかない。