南史卷六十 列傳第五十 孔休源
孔休源、字は慶緖、会稽山陰の人(?-532年)。学識・識見に優れ、沈約・徐勉ら当代の重臣に推挙されて梁朝で重用された官僚。荊州の長史・太守として上流の要衝を支え、晩年は揚州の刺史事務を委ねられる重職を任され、昭明太子薨去後の後継決定にも重きをなした。
生涯
- 孔休源、字は慶緖、会稽山陰の人。晋尚書沖の八世孫(沖は開府儀同三司愉の伯父)。曽祖遥之は宋尚書水部郎、父佩は斉通直郎。休源は十一歳で父を失い喪に礼を尽くし、父の手書きの書を見るたびに哀慟した。呉興の沈麟士に経学を学び、州の秀才に挙げられると、太尉徐孝嗣がその策文を「董仲舒・華令思にも勝る、後生の準的」と称賛、琅邪王融も推挙した。梁台建国に際し南陽の劉之遴とともに太学博士となり、当時の美選と評された。都に寓居した折、侍中范雲が一見して「清顔にはからずも会えた」と称賛し、後日、宗人孔登の質素な食膳を休源が意に介さず食べたことに感心して高談を交わした逸話が伝わる。
- 尚書令沈約にも重んじられ、武帝が徐勉に「学識通儀に明るい者」を求めた際、勉は「孔休源は識見清通、晋宋の起居注を誦じて口をつく」と推薦、武帝も聞き及んでいたため兼尚書儀曹郎とし、旧事に基づき即断できるその才を任昉は「孔独誦」と呼んだ。建康獄正として冤罪を減らし、中書舎人、尚書左丞として弾劾を厳正に行い、周捨の礼疑義編纂にも意見が採録された。長兼御史中丞として正色直繩、百寮に憚られた。
- 晋安王長史・南郡太守・行荆州府州事。武帝は「荊州は上流の要衝、十歳の皇子を委ねる、周昌の故事のように匡輔せよ」と敕した。始興王憺が代わって鎮した際も府長史・太守行府事は変わらず、治績あり、請託を退けたことを武帝に嘉された。秘書監、晋安王府長史・南蘭陵太守・専行南徐州事を経て、都官尚書。普通七年(526年)揚州刺史臨川王宏が薨じ、後任を望む声が貴戚に多い中、武帝は「孔休源こそ相応しい」として宣恵将軍・監揚州事に任じた。中大通二年(530年)金紫光禄大夫。昼は訴訟を裁き夜は典籍を読み、車駕巡幸の際は軍国事を委ねられた。
- 昭明太子薨去に際し夜に召され、晋安王綱を皇太子に立てる会議に群公とともに参与、公卿がこぞって休源の前で決を仰ぐさまは「兼天子」と称された。四年(532年)卒、薄葬の遺令。帝は涙し、謝挙に「孔休源は職に清忠、政道を共に興そうとしていた矢先の死を惜しむ」と語った。諡は貞。風範強正、天下を己が任とし、蔵書七千巻を自ら校練、奏議弾文をまとめて十五巻とした。長子雲章は東揚州別駕、少子宗範は中書郎。