南史卷六十 列傳第五十 傅昭

傅昭、字は茂逺、北地霊州の人。宋・斉・梁の三朝に仕えた清廉な官僚学者で、権勢を求めず廉静を貫いた人柄が歴代の君主に重んじられた。安成内史・臨海太守として善政を布き、魏晋以来の官宦系譜・故実に精通して「学府」と称された。

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生涯

  • 傅昭、字は茂逺、北地霊州の人。晋司隷校尉咸の七世孫。祖父和之、父淡は三礼に通じ宋世に名高かったが、竟陵王誕の反乱に連座して誅殺された。昭は六歳で孤児となり成人のように哀毀、外祖父に養われた。十歳のとき朱雀航で暦日を売っていたのを雍州刺史袁顗が見出し、読書に動じない神情を「必ず佳器となる」と評した。司徒建安王休仁が招こうとしたが宋室の内紛を理由に応じず、廷尉虞愿の招きで太原王延秀の薦めを受け、丹陽尹袁粲に郡主簿として召され、諸子に受学させた。明帝崩御の際、粲の哀策文の半ばは昭が起草した。
  • 総明学士・奉朝請ののち、斉永明中、尚書儀曹郎。御史中丞劉休の薦めで斉武帝により南郡王侍読とされ、南郡王(廃帝)即位後、権寵を争う諸臣の中で昭は南陽の宗夬とともに保身を全うし禍を免れた。明帝の下で中書通事舎人となった際、この職の者は権勢を振るうのが常であったが昭は廉静に徹し、燭は板牀に挿す質素さを通した。明帝はこれを聞き漆合燭盤を賜り「卿には古人の風あり、故に古人の物を賜う」と勅した。
  • 尚書左丞ののち、梁武帝も昭を重んじ給事黄門侍郎・領著作・兼御史中丞。天監三年(504年)兼五兵尚書参選事、四年即真し左戸尚書。安成内史郡は宋以来兵乱が続き、任者が凶終することが多かったが、昭が着任すると夜に甲兵の霊が「傅公は善人、侵犯するな」と言って去ったといい、暴風で聴事(役所)が陥没穴に落ちて以後、郡は無事となった。郡渓に魚が少なく暑月に魚を薦められても受け取らず門脇に放ち、猛獣の害には檻穽を撤去し「人が猛獣を害さねば猛獣も人を害さず」と命じたところ害がやんだという。
  • 秘書監・太常卿を経て臨海太守。前任者が独占していた密巌の利を民と共有させ、県令が絹を米俵の下に忍ばせた贈物も笑って返した。普通五年(524年)散騎常侍・金紫光禄大夫。清静を旨として書記を楽しみとし、老いても博識は衰えず、魏晋以来の官宦系譜・人物に精通して「学府」と称された。性格は篤慎で、子婦が牛肉を得た際「食えば法を犯し、告げれば孝に悖る」として密かに埋めさせた逸話がある。卒諡は貞。長子諝は尚書郎・湘東王外兵参軍、諝の子準は梁宣帝の時代に度支尚書。
  • 弟の映(字は徽逺)は三歳で孤児となり兄弟仲睦まじく非礼を行わなかった。昭が臨海に赴任する送別の宴が夜まで続いた際、映は高齢の昭を案じて自ら迎えに行き同乗して帰った。昭の死後は実父のように喪に服し、七十を過ぎても服が除かれるたび慟哭した。天監中、烏程令、太中大夫で卒。子は弘。