南史卷五十六 列傳第四十六 樂藹
樂藹、字蔚遠、南陽淯陽の人、晉の尚書令樂廣の六世孫(?–?、広州刺史として官にて没)。齊代から荊州で治績を挙げ、梁では御史中丞として公正剛毅な職務を果たし、晩年は広州刺史として前刺史徐元瑜の謀反を鎮めた。
出自と斉での活躍
- 樂藹は字を蔚遠といい、南陽淯陽の人で、晉の尚書令樂廣の六世孫にあたる。江陵に住み、頬骨が張り鼻筋が高く挙動は温雅であった。舅の雍州刺史宗慤が甥姪たちに器物を見せて選ばせた際、藹だけが何も取らず、慤はこれを竒とした。史伝を各一巻授けて記憶力を試すと藹は正確に諳んじ、慤はますます彼を評価した。
- 齊の豫章王蕭嶷が荊州刺史となると驃騎行參軍・州主簿として州事に参画し、城隍・風俗・山川の険易を問われるたびに図籍のように的確に答え、嶷は重用した。州人の嫉妬で「藹の官舎は市のように賑わっている」と讒言されたが、実際は閉閣して読書に耽っているところを見られただけであった。永明八年(490年)荊州刺史巴東王蕭子響の乱で府舎・官曹の文書が焼失した際、齊武帝に召されて西事を問われると藹は詳しく答え、武帝は喜んで荊州中從事とし府州の修復を命じ、藹は数百区の廨署を修復した。
- 豫章王嶷が薨じると藹は官を解いて喪に赴き、荊湘二州の故吏と共に墓所に碑を建てた。南康王の西中郎時代は諮議參軍、蕭穎胄は藹・宗夬・劉坦に経略を委ねた。
梁での御史中丞と晩年
- 天監初め(502年)累遷して御史中丞。以前江陵を発つ際、船中で理由もなく八本の車輻を得ており、それが中丞の健歩の避道の吉兆だったと後に評された。性格は公正剛毅で憲台にあって職に称った。長沙宣武王の葬儀の際、車府の庫で油絡の火事が起こり主管者を推問しようとしたが、藹は「昔晉の武庫火災で張華が積んだ油が長年で自然発火したと述べた、今回も庫の灰が原因で吏の罪ではない」と述べ、検分すると果たして積灰があり、その博識が称賛された。𢎞恕二年、平越中郎将・広州刺史。前刺史徐元瑜が始興の反乱で内史崔慧景を追い出し財産を掠奪した後、広州に逃げ帰り藹に兵を借りて討伐を装いつつ実は藹を襲おうとしたが、藹はこれを察知して誅殺し、まもなく官にて卒した。姉は同郡の徴士劉蚪に嫁ぎ礼を弁えた人物で、藹は州に迎え俸禄の三分の一を割いて供養した。西土の人々はこれを称えた。子は樂法才。
樂法才
- 樂法才は字を元備といい、弟の樂法蔵と共に美名があった。沈約は「法才は実に才子だ」と評した。建康令として奉禄を受けず、離任時に百金近くを県庫に納めようとすると武帝は「これほどの清節なら百城の模範たり得る」と称賛した。太舟卿から南康内史に転じたが「奉を辞退して功名を得るのは恥」として辞退し、少府卿・江夏太守を歴任。代任のたびに便道での帰郷を求め、家では宅を割いて寺とし俗世を離れて没した。弟の法蔵は征西録事參軍として早世、その子の樂子雲は容姿・挙止に優れ江陵令から光禄卿を承制で授かったが、魏が江陵を陥落させると人々が逃げ散る中「終わりは虜となる定めだ、死節を守る方がよい」と地に伏して卒した。
史論
- 張𢎞䇿は惇厚で慎密、帝の大業の当初から与かり、その地位と待遇の厚さはただの外戚に留まらない。ただ太清の乱で親属が離反した際、その子張纘は蕃岳(蕭誉ら)と和合できず、陶冶の功を成すどころか私怨から釁隙を招く端緒となった。この風格ゆえに梁の乱の一因となったことは惜しいというべきである。
- 庾域・鄭紹叔・吕僧珍らは、忠誠を尽くす者、勤勉を怠らぬ者、それぞれに王業の締構に力を尽くした。吕僧珍の禁中での恭謹、鄭紹叔の忠誠に二心なきさまは、まさに人臣の節を備えていたといえる。樂藹は帷幄の勲こそなかったが、雲雷の業(革命の大業)を助けた点で、その官任と寵秩もまた当然のことであろう。