南史卷五十六 列傳第四十六 吕僧珍
吕僧珍、字元瑜、東海范陽の人(?–511年、官にて没)。貧家の出から梁文帝・武帝父子に仕え、挙兵の準備から建康入城まで武帝の腹心として働き、南兗州刺史として謙虚な治績を残した。諡は忠敬。
出自と武帝への忠誠
- 吕僧珍は字を元瑜といい、東海范陽の人で、代々広陵に住み家は貧しかった。幼少時、相者が諸生の中から僧珍を指して「この子は竒声あり、封侯の相だ」と評した。梁文帝の門下書佐となり、身長七尺七寸で容貌堂々、同僚に敬われた。文帝が豫州刺史となると典籤・䝉令を兼ね、領軍将軍に転じると主簿に補された。
- 妖賊唐㝢之が東陽を寇した際、文帝が東征し僧珍に行軍の局事を任せた。僧珍の自宅は建陽門の東にあったが、出征を命じられて以降、建陽門を通っても私宅に立ち寄らなかったため文帝はますます彼を信頼した。司空陳顯逹が沔北に出軍した際、僧珍を見て「卿には貴相がある、努力せよ」と評した。
- 建武二年(495年)、魏軍が五道から南攻すると武帝は義陽への援軍に赴き僧珍も従軍した。長沙宣武王が梁州刺史として魏に包囲され義陽と雍州の道が断たれた際、誰も使者を志願しない中、僧珍が単舸で襄陽に赴き援軍を督励し宣武王の書を得て戻り、武帝に称賛された。東昏侯即位後、司空徐孝嗣が朝政を執り僧珍を誘ったが、まもなく敗れると見て応じなかった。武帝が雍州に赴くと僧珍も西帰を望み卭令となり、その後は中兵參軍として心膂を委ねられた。
挙兵準備と建康入城
- 僧珍は密かに死士を養い、武猛の士が万餘人集まった。武帝の命で城西の空地に数千間の屋を建てるふりをし檀溪の材竹を沈め茅を積ませたが、僧珍だけがその真意を悟り、私に数百張の櫓を準備。挙兵時に檀溪の材竹で船艦を作り茅で葺いて一挙に整え、諸将が櫓を求めた際に予め用意した分を渡して混乱を防いだ。輔國将軍・歩兵校尉として出入りし意旨を伝えた。
- 江寧進軍で王茂と共に精兵を率い赤鼻邏に先登し、東昏の将李居士を撃破。白板橋に築塁し、王茂は越城に移り僧珍は白板を守った。李居士が城中の兵少なさを見て直に攻めてきた際、僧珍は「力で敵わぬなら遠射せず壕際まで引き寄せて一気に破ろう」と将士に命じ、敵が壕を越えると内外から挟撃して撃退した。武帝受禅後、冠軍将軍・前軍司馬・平固縣侯、左衞将軍・散騎常侍として秘書省で宿衛を総べた。天監四年(505年)の北伐時、昼は中省、夜は秘書省に直宿した。
南兖州刺史と晩年
- 天監五年(506年)旋軍後、太子中庶子を兼ねた。長らく帰郷しておらず、武帝は本州である南兗州刺史に任じて栄誉を与えた。任地では迎送の礼を厳格に律し、兄弟を外堂に座らせ「これは兗州刺史の座であって私の座ではない」と述べた。従父の兄の子がねぎ売りを生業としていたが、僧珍が来て官職を求めると「国の重恩を報いる術もないのに、お前まで妄りに求めるのか、はやく葱売りに戻れ」と諭した。
- 旧宅の北にある督郵の官舎を取り込むよう郷人に勧められても「私邸のために官舎を奪えようか」と拒んだ。姉が于氏に嫁ぎ市西の粗末な家に住んでいたが、僧珍は鹵簿を連れてその家を訪ねても恥じなかった。州に百日いて領軍将軍・秘書省直宿に召還され、私車で御路に水を撒くほど謙虚に振る舞った。禁中で当直の際は盛夏でも衣を脱がず、御座の側では屏気して仕え、酔って初めて柑を食べたことを武帝に「今日は大いに進歩したな」と冗談を言われるほど慎ましかった。俸禄のほかにも月に十万銭を賜り恩賞は絶えなかった。
- 武帝挙兵当初、郢州攻めが長引き皆が北へ逃げようとした中、僧珍だけは動じず、ある夜頭痛と高熱に襲われ額の骨が大きくなる異相を見せた。天監十年(511年)病の際、武帝は自ら見舞い医薬を日に数回届けさせ、僧珍は「昔蒙県で熱病にかかり黄疸が出た時、必ず助からぬと思ったが主上に富貴の相があるから死なぬと言われて回復した、今また黄疸が出て苦しみは以前と同じだ、もう助からぬだろう」と語り、その言葉通り官にて卒した。武帝は当日殯に臨み、驃騎将軍・開府儀同三司・諡「忠敬」を贈り、痛惜して涙を流した。子の吕淡が嗣いだ。宋の季雅が南康郡を退任後、僧珍の隣に宅を求め「百萬で宅を、千萬で隣を買う」と語り、僧珍に子が生まれた際に「銭一千」と記した祝儀を贈ったが、実は中身が金銭であったという逸話も伝わる。僧珍はその才を武帝に推挙し、季雅は壮武将軍・衡州刺史として赴任し治績を挙げた。