南史卷五十四 列傳第四十四梁簡文帝諸子 元帝諸子
蕭方等、字実相、元帝の長子(?–?、河東王討伐の途上で溺死)。聡敏で騎射に長け隠逸を好んだが、生母徐妃の失寵から元帝に疎まれ、河東王討伐に赴いた麻渓で軍が敗れ溺死した。范曄後漢書の注釈や三十国春秋・篤静子を著すなど文才もあった。子の荘は後年、王琳に擁立され一時的に帝位に即いた。
年表(2件)
- 太平2年557年子の荘、王琳の擁立により郢州で即位し天啓と建元する
- 斉の武平元年570年子の荘、梁王に封ぜられるも復位叶わず鄴で憤死する
簡文帝の諸子――出自の概略
- 簡文帝には20人の子があった。王皇后が哀太子大器・南郡王大連を、陳淑容が尋陽王大心を、左夫人が南海王大臨・安陸王大春を、謝夫人が瀏陽公大雅を、張夫人が新興王大荘を、包昭華が西陽王大鈞を、范夫人が武寧王大威を、褚修華が建平王大球を、陳夫人が義安王大昕を、朱夫人が綏建王大摯を生んだ。臨川王大款・桂陽王大成・汝南王大封・楽良王大圜は生母が分からない。潘美人が生んだ皇子大訓は早世し封を受けなかった。その他は伝わらない。
哀太子大器
- 蕭大器、字仁宗、簡文帝の嫡長子。中大通3年(531年)宣城郡王。太清2年(548年)10月、侯景が建鄴に宼すると台内大都督に任じられた。太清3年(549年)5月簡文帝即位、6月癸酉皇太子に立てられた。大宝2年(551年)8月、景が簡文帝を廃し太子を害そうとし、景の党が命と称して召しに来た。太子は老子を講じている最中で牀を下りようとしたところ刑人が迫ったが顔色を変えず「かねてより覚悟していた、遅いくらいだ」と言った。刑者が衣帯で絞めようとすると、太子は帳竿の縄を自ら指し「これで縛れ」と命じ絶命した、享年28。
- 賊中にあっても屈せず、周囲が理由を問うと「賊がまだ殺す気でなければどれほど傲慢に振る舞われても言葉を発せぬだけだ、殺される時が来れば一日百拝しても死は免れぬ」と答えた。憂迫の中でも平然としている理由を問われると「私は自分が賊より先に死ぬと見ている、もし諸叔が外から羯賊を平定すれば私は先に殺され、逆に上流が成功すれば後で富貴を得る、いずれにせよ無益な愁いで必死の運命を憂えても仕方ない」と答えた。景が西上する際太子を同行させたが、敗れて帰る途中船がはぐれ、乗った船が樅陽浦に入ると腹心が北へ亡命するよう勧めたが、太子は「国家の喪敗で生を図る志はない、主上が蒙塵する中で離れるのは忍びない、今去れば父に叛くことになる、天下に父無き国はない」と涕泣して前進を命じた。賊は太子の器量を憚り後患を恐れて先に殺した。承聖元年(552年)4月、哀太子と追諡され太廟の陰室に祔られた。
尋陽王大心
- 蕭大心、字仁恕、簡文帝第二子。幼くして聡朗で文章を能くした。中大通4年(532年)皇孫として当陽県公。大同元年(535年)都督郢州刺史(時に13歳)、簡文帝は幼い大心に「事の大小すべて行事に委ねよ」と戒めたが、大心は州務に直接関わらずとも発言は道理に適い衆を驚かせた。太清元年(547年)雲麾将軍江州刺史となったが財賄を貪り百姓を懐柔できなかった。太清2年(548年)侯景が都に宼すると士卒を招集し上流諸軍と共に宮闕へ入援した。太清3年(549年)台城陥落、上甲侯蕭韶が南奔し宣を密詔で散騎常侍・平南将軍に進めた。大宝元年(550年)尋陽王。
- 歴陽太守荘鉄が城を挙げて景に降ったのちその母を連れて大心のもとへ来降すると、大心は旧将として厚遇し軍事を委ね豫章内史とした。景がしばしば軍を西上させ抄掠すると鉄に撃破させ、将趙加婁を捕らえた。鄱陽王範が合肥を棄て柵口に屯し援兵を待っていた際、大心は範を招き西上させ盆城に迎え厚く供給し協力して禍難を除こうとしたが、鉄が拠る豫章で反したため中兵参軍韋約に討たせるも敗れ、鉄は降を乞うた。しかし鄱陽世子嗣は鉄と旧知であり「鉄の才略は横無尽、降っても必ずその首を全うできまい」と範に進言し侯瑱を遣り鉄を救わせ夜に韋約らの営を破ったため、大心は大いに恐れ、以後尋陽と鄱陽の間に釁が生じた。
- 景の将任約が盆城に迫ると司馬韋質に迎撃させたが敗れた。帳下になお勇士千余人がおり、糧の乏しさから建州へ移り再挙を図るべきと進言したが、母陳淑容が胸を打って慟哭しこれを止めたため、大心は約と和した。大宝2年(551年)害されようとした際、牀を巡りながら賊将王僧貴に「全州を挙げて帰命したのになぜこれほど苦しめるのか」と訴えたが射殺された。
臨川王大款
- 蕭大款、字仁師、簡文帝第三子。初め石城県公、中書侍郎。太清3年(549年)簡文帝即位で江夏郡王。大宝元年(550年)江陵へ奔り湘東王(元帝)の承制により臨川王に改封。魏が江陵を陥した際に害された。
南海王大臨
- 蕭大臨、字仁宣、簡文帝第四子。大同2年(536年)寧国県公。幼くして聡慧、11歳で左夫人(生母)の喪に哀毁して孝を称された。国学に入り明経射策甲科で中書侍郎、給事黄門侍郎。大同11年(545年)長兼侍中、琅邪彭城二郡太守。侯景の乱に端門で城南諸軍事を都督、大宝元年(550年)南海郡王、都督東揚州刺史、呉郡太守。会稽で挙兵した張彪のもとへ呉人陸令公・潁川の庾孟卿らが投じることを勧めたが、大臨は「彪が成功しても私の力によるものではない、敗れれば私のせいにされる、行くべきではない」と応じなかった。大宝2年(551年)害された。
南郡王大連
- 蕭大連、字仁靖、簡文帝第五子。若くして俊爽で父の挙止を学び、音楽に通じ丹青も善くした。大同2年(536年)臨城県公。大同7年(541年)南海王とともに国学に入り射策甲科で中書侍郎。大同10年(544年)武帝が朱方に行幸した際、大連は兄大臨とともに従い、武帝が「お前たちは騎乗を習っているか」と問うと「未だ詔を受けておらず勝手に習っておりません」と答えたため馬を与えて試させると、二人は鞍上を往還し馳驟の節を得た。帝は大いに喜んで乗馬を賜り、謝辞も見事であったため後日簡文帝に「先日大臨・大連の風韻には老いの心が慰められた」と語った。給事黄門侍郎から侍中に転じ、太清元年(547年)東揚州刺史。侯景が建鄴に宼すると4万の兵を率いて入援したが、台城陥落後は援軍を解散させ東揚州へ戻った。会稽は豊沃で糧仗が豊富にあり、東の民は景の苛虐に懲りて協力を望んだが、大連は酒に溺れがちで、宋子仙の攻撃を受けた際も大連は酔って気づかず信安県まで追撃され、三呉はことごとく賊の手に落ちた。大宝元年(550年)南郡王。賊将趙伯超・劉神茂の来攻に際し部将留異に城を委ねたところ異は賊に降り、大連は逃走の末捕らえられ、侯景は江州刺史に任じたが、大宝2年(551年)害された。
安陸王大春
- 蕭大春、字仁経、簡文帝第六子。若くして書記に広く通じ笙を能くし、天性孝謹で体貌は瓌偉、腰帯10囲。大同6年(540年)西豊県侯、中書侍郎、寧遠将軍知石頭戍軍事。侯景の内寇に京口へ奔り邵陵王の入援に従い鍾山で戦ったが軍が敗れ、肥満のため逃げ切れず捕らえられた。大宝元年(550年)安陸郡王、東揚州刺史。大宝2年(551年)害された。
桂陽王大成
- 蕭大成、字仁和、簡文帝第八子。初め新塗公。太清3年(549年)簡文帝即位で山陽郡王、大宝元年(550年)江陵へ奔り湘東王の承制で桂陽王。性は凶暴粗野で弓馬に長け、江陵で甲を着て夜に出歩き人々は劫盗と誤認するほどで髻を失うこともあった。魏が江陵を陥した際に害された。
汝南王大封
- 蕭大封、字仁叡、簡文帝第九子。初め臨汝公。太清3年(549年)簡文帝即位で宜都郡王、大宝元年(550年)江陵へ奔り湘東王の承制で汝南王。魏が江陵を陥した際に害された。
瀏陽公大雅
- 蕭大雅、字仁風、簡文帝第十二子。大同9年(543年)瀏陽県公。若くして聡警で容儀美しく武帝に特に愛された。台城陥落時、左右に命じてなお戦わせ、賊が迫ると自ら縄で下り、憤りのあまり病を発し薨じた。
新興王大荘
- 蕭大荘、字仁礼、簡文帝第十三子。躁動な性質。大同元年(535年)高唐県公、大宝元年(550年)新興郡王、南徐州刺史。大宝2年(551年)害された。
西陽王大鈞
- 蕭大鈞、字仁博、簡文帝第十四子。厚重で妄りに戯れず、7歳の時武帝に何を読んでいるか問われ「詩を学んでいます」と答え周南を諷誦させると音韻清雅で、武帝はこれを重んじ王羲之の書一巻を賜った。大宝元年(550年)西陽郡王、丹陽尹。大宝2年(551年)揚州監となり害された。
武寧王大威
- 蕭大威、字仁容、簡文帝第十五子。美しい風儀で眉目画のごとし。大宝元年(550年)武寧郡王、大宝2年(551年)丹陽尹となり害された。
皇子大訓
- 蕭大訓、字仁徳、簡文帝第十六子。幼くして脚疾で靴を履けなかった。太清3年(549年)未封のまま没した、享年10。
建平王大球
- 蕭大球、字仁玉、簡文帝第十七子。大宝元年(550年)建安郡王。聡慧早熟で、侯景の台城包囲の際、武帝は仏教に帰依し「衆生が受ける苦を私の身に代わって受けさせたまえ」としばしば誓願していたが、大球は7歳でこれを聞き驚いて母に「陛下ですらこう仰るのに私が辞せようか」と言い、六時の礼仏で「すべての衆生が受ける苦報を大球が代わって受けます」と唱えたという。早熟な聡明さがこれほどであった。大宝2年(551年)害された。
義安王大昕
- 蕭大昕、字仁朗、簡文帝第十八子。4歳で生母陳夫人を喪い成人のごとく哀毀し朝夕涙し、目を傷めるほどであった。武帝崩御の際、大昕が簡文帝を慰めると簡文帝も鳴咽し左右も皆涙した。大宝元年(550年)義安郡王、大宝2年(551年)害された。
綏建王大摯
- 蕭大摯、字仁瑛、簡文帝第十九子。幼くして雄壮で胆気があった。台城陥落の際「大丈夫たるものついには虜を滅ぼすべき」と嘆じたところ乳母が驚き口を塞いで「妄言するな、禍が及ぶ」と言うと大摯は笑って「禍が至るのはこの言葉のせいではない」と答えた。大宝元年(550年)封を受け、大宝2年(551年)害された。
楽良王大圜
- 簡文帝第二十子。大宝元年(550年)封を受けた。のち周に入り、隋に仕えて内史侍郎となった。
元帝の諸子――出自の概略
- 元帝の子は、徐妃が忠壮世子方等を、王貴嬪が貞恵世子方諸・始安王方略を、袁貴人が愍懐太子方矩を、夏貴妃が敬皇帝(方智)を生んだ。その他は伝わらない。
忠壮世子方等
- 蕭方等、字実相、元帝の長子。若くして聡敏で俊才があり騎射を善くし巧思に長け、山水を愛し隠逸を好んだ。かつて「人生は白駒の隙を過ぐるがごとし、一壺の酒・一簟の食で性を養い形を怡ばすに足る、生きては蒿蓬に在り死しては溝壑に葬らる、瓦棺石椁も何ら変わらぬ、私はかつて魚となる夢を見、また鳥となる夢を見た、夢の中では何と楽しかったか、覚めれば何と憂うことか、これは私が魚鳥に及ばぬ証だ、魚鳥は志のままに飛び浮かぶが、私の進退は常に掌中に握られ、首を挙げれば触れることを恐れ、足を動かせば堕ちることを恐れる、もし魚鳥と共に遊べれば人間を脱ぐがごとくであろう」という論を著した。
- 初め、徐妃は嫉妬により寵を失い、方諸の母王氏が容姿によって寵を得ていたが、王夫人が没すると元帝はその咎を徐妃に帰し、方等は不安を覚えた。元帝もこれを聞いて方等を疎んじ、方等はますます懼れこの論を著してその志を示したという。武帝が老齢となり諸王の長子に会いたいと望み、元帝が方等を遣わすと、方等は喜んで舟に乗り、都で憂辱を免れることを期したが、繇水に至った際に侯景の乱に遭った。元帝が召還を図ると方等は「昔申生は死を厭わなかった、方等がどうして生を顧みよう」と上啓し、元帝は書を見て嘆息しつつ帰還の意志がないと悟り、歩騎1万を配して台城救援に向かわせた。賊が来攻するたび方等は自ら矢石に身を晒し、城陥落後は荊州に戻り士馬を収集して衆望を得、元帝は初めてその能を認めた。方等はさらに城柵の修築を勧め完成すると楼雉が連なり周囲70余里に及んだ。
- 元帝はこれを見て喜び、徐妃に「もう一人このような子があれば何を憂えようか」と言うと、徐妃は答えず涙して退いた。元帝は怒り、妃の醜行を記した文を大閣に掲げた。方等はそれを見て自身の危うさを感じた。当時、河東王(譽)が湘州刺史として令に従わず、元帝は方等に討伐を求めさせ、元帝は「お前には水の厄がある、深く慎め」と言いつつ都督に任じ南討させた。方等は出征に際し親しい者に「この出征では必ず死ぬだろう、二度は死なぬ、死してその所を得られるなら生を惜しむものか」と語り、麻渓に至って軍が敗れ溺死した。元帝はその死を聞いて内心喜び哀しまなかったが、後にその才を偲び侍中中軍将軍揚州刺史を贈り諡を忠壮とし、世子として招魂して葬った。
- 方等は范曄の後漢書に注を付そうとしたが未完に終わり、三十国春秋・篤静子を著し世に行われた。元帝即位後、諡を武烈と改めた。世子の荘は永嘉王に封じられ、魏が江陵を陥した際7歳で人家に匿われ、後に王琳が迎え建鄴へ送った。敬帝の代に斉へ人質として出され、太平2年(557年)陳武帝の受禅に際し王琳が斉に荘を主として立てることを請い、盆城から江を渡り2月に郢州で即位、年号を天啓とし百官を置いたが、王琳が軍国を統轄した。翌年、荘は陳軍に敗れ、御史中丞劉仲威が奉じて寿陽へ奔り斉に入った。斉の武平元年(570年)特進開府儀同三司梁王に封じられ、斉朝は再興を許すとしたが果たされぬまま斉は滅び、荘は鄴で憤死した。
貞恵世子方諸
- 蕭方諸、字明智、元帝第二子。幼くして聡警博学、老子・易経に明るく玄談を善くし、風采清越で元帝に特に愛された。母の王氏も寵愛されていた。方等が敗死したのち、元帝は「廃さねば興らぬ、兄のことは思うな」と言い中撫軍将軍に任じ自らの副とし、郢州刺史として江夏を鎮させ、鮑泉を行事とした。元帝が徐文盛を派遣し侯景の将任約と対峙していた頃、方諸は15歳の童心が抜けず文盛の近くにあることを頼み、鮑泉と博打・酒宴に耽った。侯景はこれを知り将宋子仙に間道から襲わせた。百姓が奔り知らせても方諸・鮑泉は「文盛の大軍が下流にいる、賊が来るはずがない」と信じず門を閉ざさせたが賊はすでに城に入っており、方諸は泉の腹の上に座り五色の毦で泉の鬚を結っていたところを子仙に捕らえられ、王僧辯の軍が蔡洲に至ると景はついに殺した。元帝は貞恵世子と追諡した。
愍懐太子方矩
- 蕭方矩、字徳規、元帝第四子。若くして学に勤め容止美しかった。初め南安侯、太清初年侍中中衛将軍に累遷。元帝の承制で王太子となり名を元良と改め、承聖元年(552年)11月丙子皇太子。儲位に就いてから群下と狎れ微服を好み、朝見の公服の下に碧絲布の袴を高く裾げて着けているのを元帝に見咎められ、尚書周弘正に責めさせその師とした。後日弘正が元帝に謁見した際「太子は近頃卿の教導を受けているか」と問われ「太子の聖徳はいまだ極まっておらず、幸い大過はありません」と答えると、元帝は「卿は我ら父子の間柄ゆえ直言を控えているのだろう、和嶠の対(晋の逸話)のようにしていれば、廃立の計もあり得た」と語ったが、実行に移す前に江陵が陥落し方矩は害された。太子は聡頴だが凶暴猜忍で、元帝の性質を継いでいたという。敬帝の承制で愍懐太子と追諡された。
始安王方略
- 蕭方略、元帝第十子、貞恵世子(方諸)の同母弟。母王氏は王琳の次姉で、元帝即位で貴嬪、次妹も良人となり寵を受けたため方略は特に鍾愛された。侯景の乱で元帝が魏と好誼を結んだ際、方略はわずか数歳で人質として関中へ遣られ、元帝は近畿まで見送り手を取り歔欷した。旋駕して後、方略を偲び「わが幼子はいかにしているだろう、勝衣(幼くして着る礼服)のまま既に別れ、十日と経たず宴を共にできぬまま千里を送り遠く長安に至った、贈遺は厚くしたが」との詩を作った。江陵陥落の際に害された。貴嬪・良人はさらに子を産んだが、閣を出ぬまま封を受けず名も伝わらない。
史論
- 簡文帝は乱賊に翻弄され、元帝は危難の中に身を置いた。諸子が艱難の中を生きねばならなかったのは、時運の巡り合わせであろう。忠壮世子(方等)は幹蠱(父の事業を継ぐ)の才を以て嫡嗣の任を得ながら、若くして通塞を隔てられたのは、これもまた天命というべきであろうか。哀しいことである。