出自と経歴
- 蕭恢、字弘達。文帝の第十子(底本のまま。梁書は第九子とする)。7歳で孝経・論語の大義を通じた。斉に仕え北中郎外兵参軍等。宣武王の難で都下に逃れ、武帝挙兵時は身を隠して難を免れた。天監元年(502年)鄱陽郡王、郢州刺史都督。郢城内で疫病が多発し埋葬が追い付かない状況を見て速やかに埋葬を命じ、使者を四方に派遣して安撫した。奇貨とされる筒中布を献上した者があると、焼き捨てさせて民の信を得た。
- 益州刺史都督に累進、成都から新城まで500里の私馬による輸送に民が苦しんでいたのを、馬千匹を購入し順繰りに用いさせて解決した。開府儀同三司都督荊州刺史に再遷、普通7年(526年)州で薨じ、侍中司徒を贈られ、諡を忠烈とした。
- 容質美しく談笑に長じ酒を愛す士大夫風の人柄で、孝心も篤かった。蜀鎮守中に都の生母費太妃が病んだ際、恢は夢で看病する自身を見て憂え、都からの使者到来で快癒を知った。眼病を患った際は道人慧龍の療眼術を求め、空中に聖僧と慧龍が現れる幻を見て開眼したという。
- 財を軽んじ施しを好み、4州で得た俸禄はすべて散じた。荊州で賓僚に「中山王の好酒と趙王の好吏いずれが優れるか」と問い、長史蕭琛が「王侯は蕃屏の職にあり、中山王が楽を聴くのは任悦だが趙王が吏事を代行するのは侵官に近い、今の王侯は蕃国を守り天子を佐けるべきで清廉こそ優れる」と答えると座は感服した。男女百人の子があり、男39人が侯に封じられ、女38人が主(公主格)となった。世子範が後を継いだ。
範――経歴と最期
- 蕭範、字世儀。温和で見識があり衛尉卿として夜自ら巡警した。武帝はその労をねぎらい益州刺史に任じたが、荊州に至った時忠烈王(恢)が薨じたため喪に服そうとした。武帝は許さず荊州を権知させ、湘東王が至ると範は旧に依り職に就き、弟湘潭侯退に喪を伴わせ帰した。大同元年(535年)、剣道を開通させ華陽を回復した功で増封、のち領軍将軍侍中に徴された。
- 学術はなかったが籌略を自負し、奇を愛し古を翫び、文才ある者を招いて意のままに題章させた。旧い琵琶に「斉竟陵世子」と題されているのを見つけ、人去り物残るを嗟嘆して詩を詠み湘東王に示すと、王は琵琶賦を作って和した。のち都督雍州刺史。将士の心を得て養い、城郭を修め軍糧を私邸に蓄えた。廬陵王が荊州にあり都督府として折り合いが悪く、範に謀反ありと啓上したが範も自ら弁明し武帝は不問とした。しかし世人はなお範が謀反を欲していると噂し、童謡にも謳われた。
- 武帝が老齢となり諸王が互いに疑心を抱く中、簡文帝と司空邵陵王綸が特に不和で、綸が丹陽尹として威を振るうと簡文帝は精兵を選んで宮内を守らせた。範は童謡に合致し公位を望んだところ、開府儀同三司に加えられ、範はこれを謡の的中と喜び、武帝が崩じれば諸王は必ず乱れると考え、機に乗じて天下を定めようと士衆を集めた。
- 太清元年(547年)大挙北侵の際、元帥に範を用いようとしたが朱异が急遽戻り「嗣王(範)は雄豪だが至る所で残暴に過ぎ弔民の材ではない、骨肉が戎首となれば災いを招く」と諫めた。武帝は代わりに㑹理を挙げ、朱异の懸念通り㑹理は懦弱で謀がなく、輿の作りを聞いて武帝は不快になった。行軍中、貞陽侯明の願いにより明が代わり、範は征北大将軍総督漢北征討諸軍事、のち南豫州刺史に遷った。侯景が渦陽で敗れ寿陽に退くと、範は合州刺史となり合肥を鎮した。景の不臣の兆候をたびたび啓上したが朱异に抑えられ奏上されなかった。
- 景が都を囲むと範は世子嗣らを入援させ開府儀同三司に遷ったが、台城不守の報を受け合肥を捨て東関を守り、魏へ援兵を求めて2子を人質に出した。魏は合肥を占拠しただけで援けず、範は進退窮まり長江を遡り嶷陽に軍を置いた。尋陽王大心へ書を送り西上を促すと大心は喜び範を九江に招こうとし、範は盆城に至り晋熙を晋州として子嗣を刺史とした。江州の郡県を勝手に改易したため、尋陽の政令が及ぶのは1郡のみとなり、市糴も通じなくなった。範は弟観寧侯永に南川からの物資輸送を通させたが荘鉄との協調も破れ、範の数万の軍は食糧が尽き餓死者が続出、範自身も発背(できもの)で薨じた。
- 死は秘され弟の南安侯恬を主に立てたが、部将侯瑱が豫章の荘鉄を襲って殺しその軍を併せた。喪を松門へ運ぶ途上、風で柩が水没したが探し出された。慶之が豫章に迫ると侯瑱は範の子16人を率いて賊に降り、賊は石頭坑で彼らを皆殺しにした。
嗣(範の世子)――最期
- 蕭嗣、字長胤。容貌豊偉で腰帯10囲、驍果で胆略があり、身を挺して士を養い皆死力を得ていた。範の薨後も晋熙城に籠り兵糧が尽きるまで守り、侯景の将任約が攻めると流れ矢が刺さっても抜かせず賊を撃退した後にようやく矢を抜き絶命した。妻子は任約に捕らえられた。範の薨去は嗣の死後まで公にされなかった。
諮(範の弟)――最期
- 蕭諮、字世恭。衛尉卿武林侯。簡文帝即位後、警衛が厳重になり外部との接触が絶たれる中、王克・殷不害とともに文弱の故に出入を許され、天子と六芸を講論した。南康王会理の事件で王克・殷不害が禍を恐れ疎遠になったが、諮は帝への朝覲を絶やさなかったため、賊はこれを憎み仇の刁戍に広莫門外で刺殺させた。
修(諮の弟)――経歴と最期
- 蕭修、字世和。宜豊侯。局量堅固で風儀厳整、9歳で論語に通じ11歳で文を能くし、鴻臚卿裴子野に賞された。11歳で生母徐氏を喪い、荊州から柩を運ぶ途中風に遭い前後の船が多数沈んだが柩は無事だった。武帝はこれを嘉し宗室に告げ、兼衛尉卿とした。範が衛尉のとき夜巡を鞭で示威したが、修は夜に必ず二度巡回しつつも人に知られることを望まず、その理由を問われ「夜警の労は実のあるもの、主上の慈愛でお咎めがあれば奉じられず、詔に従えば職責を欠く、目立つ必要はない」と答え、聞く者は感服した。
- 衛尉から鍾離鎮に出、梁秦二州刺史に遷り漢中で7年、風俗を改め「慈父」と呼ばれた。長史范洪胄の田に蝗害が及んだ際、修は田に赴き自ら責任を負い、蝗を捕らえるより刺史の不徳を悔いると言うと、無数の鳥が現れ蝗を食い尽くして去った。この吉事が帝に伝わり璽書で慰労された。州人が頌徳碑を求めた。嗣王範が盆城で異論を招いた際、修は誠意を尽くして疑いを解いた。
- 承聖元年(552年)、魏将逹奚武が来攻。記室参軍劉璠を武陵王紀のもとへ遣り援軍を求めたが、璠は帰路魏に降った。魏の安定公宇文泰の勧降にも「断頭将軍たるを誓う」と拒んだが、力尽きて降った。安定公に厚遇され江陵に帰されたが、元帝は変を恐れ監視を絶やさなかった。修は自ら馬・武器を返上して帝を安心させ、帝と会うと悲しみを抑えられず元帝も慟哭した。湘州刺史、太尉。江陵包囲の報を受け即日出兵しようとしたが間に合わず、江陵陥落。敬帝は太尉を追贈、王室の衰微を憂いながら発背で薨じた、享年52。
泰(修の弟)
- 蕭泰、字世怡。豊城侯。中書舎人を歴任し財産を尽くして時の要人に取り入った。譙州刺史として、彊悍な江北の民に前任者は撫慰していたが、泰は人丁を徴発し腰輿・扇傘を担がせ士庶を問わず罰したため民は乱を望むようになり、侯景来襲時に真っ先に敗れた。